◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第51回

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第三章──物証 06
接見室で増山に訥々と語りかけたあと、都築は彼とある約束をかわす。

 増山は都築を見つめて話に聞き入っている様子だ。

 志鶴が司法修習生時代にエクスターンとして都築の事務所で修習を受けていた頃、彼が弁護を担当する否認事件の公判を傍聴したことがある。公判期日のスケジュールを決める際、都築は裁判官に最終弁論として九十分という時間を求めた。裁判官は三十分に制限しようとしたが都築はその要求を退け、公判では予定どおり九十分かけて最終弁論を行った。メモの類は一切なしだった。その場にいた関係者──裁判官、裁判員、検察官、依頼人──はもちろん、書記官や刑務官、満員の傍聴席に座っている傍聴人の一人に至るまで誰もが都築に注目し、居眠りなどすることもなく彼の言葉に最後まで集中して耳を傾けていた。この事件で都築は被告人の無罪を勝ち取り、検察側が控訴することなく判決が確定した。

「僕が弁護士になったのは四十年ほど前で、警察や検察の取調べも、今よりもっと強引で非人道的、被疑者を眠らせないとか、取調官による恫喝(どうかつ)や暴力も当たり前だった。そんな現状に納得できない弁護士は僕以外にもいて、そういう仲間たちと何とか日本の刑事裁判を変えようと努力してきた。実際、少しずつ変わってきたんです。逮捕された増山さんのところへすぐ川村君が駆けつけた当番弁護士制度も、僕らの仲間で作った仕組みです」

 増山が、はっとしたように志鶴に目を向けた。都築が続ける。

「捜査機関が勝手に作文した調書を裁判の証拠にさせないため、被疑者に署名や捺印(なついん)を拒否してもらうという当時としては過激な戦略も僕らが始めたものです。黙秘権は憲法でも保証されている権利ですが、日本の人質司法の制度下で行使するのは現実にはほとんど不可能だから、その代わりの対抗策として考えた。これは効果がありました。他の弁護士たちもこうした手法を用いるようになり、それまでのように好き勝手に作文した調書を裁判で証拠として提出することができなくなった検察官は困った。その結果、増山さんもご存じの『取調べの可視化』──取調べの録音録画が実施されるようになったんです。さらに、われわれにとって念願だった裁判員制度も始まったことで、日本の調書裁判も少しずつ変わってきた」

 都築の目がしっかりと増山の目を捉えた。

「増山さんが今、苦しい思いをしているのは当然のことでも、仕方のないことでもない。増山さんは間違った制度の犠牲者なんです。われわれ弁護士はこの日本の刑事司法のシステムそのものと闘って変えていかなくてはならないし、現に闘い続けています。ですが──制度が正されるまで事件は待ってくれません。この間違った現状のなかで歯を食い縛り、依頼人のためにベストを尽くすしかないというのも日々の現実です。こちらの川村弁護士──」

 都築は手で志鶴を示した。

「彼女は弁護士になってまだ一年目ですが、とんでもなく優秀で、依頼人のために権力を敵に回して闘うガッツの持ち主です。つい先日も増山さんのご実家に押しかけた取材陣にこう啖呵(たんか)を切った──『依頼人のためなら、世界のすべてを敵に回しても闘うのが弁護人の務めです。これ以上、私の依頼人への犯人視報道はやめてください』ってね。僕はテレビで観たけど、いやあ、かっこよかったですねえ」

 増山がびっくりしたような目を志鶴に向けた。とっさのことで志鶴はどんな顔をしてよいかわからなかった。

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。