◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第54回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第54回
第四章──原点 01
いつもとは反対方向の列車に乗る志鶴。人知れず訪れるその場所は──。

「だよねえ」志鶴は同意する。「『みんな仲良く』なんて人権から一番遠いフレーズじゃん」

「そう。実際、小学校中学校の人権教育の教材を見ると『他人の気持ちを考える』とか多様性とか共生がテーマだったり、具体的な権利として自由に表現することを挙げながら『ただし、ほかの人に迷惑をかけてはいけない』っていう注釈がついたりして、大事なこととは思うけど人権の本質とはちょっとズレてる印象を受けるんだよな」

「ちなみに、志鶴ちゃんの人権の定義って?」森元が言った。

「今の話の流れで言えば──他人や社会に迷惑をかけまくる最低のクソ野郎にも、他のすべての人と同じく国家にさえ侵されない生まれながらの権利がある、ってとこですか。ていうかむしろ、誰が見てもクソ野郎と思うような最低最悪の人間にこそ認めるべきものですよね」

「人間であるというだけで万人に普遍的な生得の権利って、本質にそれくらいの過激さを含んでるってことだよね。なるほどそれは小中学校の道徳じゃまともに教えられないか」

 森元は苦笑する。

「それも笑いごとじゃないんですよね」三浦が言う。「俺自身の経験ですが、中学校の憲法学習でもたとえば表現の自由についてはわいせつ表現が題材だったり、人権というのは自分たちとは無関係のものだとしか思えなかった。自分たちが理不尽だと感じていた校則について反対するために行使していいものなんだという風には教師は決して教えてくれないんですね。教師たちが人権というものを管理する側にとって不都合なものだと危険視していたようにすら思える」

「問題はそこ」志鶴は声をあげた。二人の視線が集まる。「今改めてわかった。人権感覚がないまま大人になっても無罪推定の原則なんか理解できるはずがない。市民の人権感覚の欠如こそ日本の刑事司法の問題の諸悪の根源ってことだ」

「確かに」森元が言った。「世間のほとんどの人は『疑わしきは罰せず』っていう言葉を誤解してる気がする。普通の人の理解はせいぜい『被告人が怪しいからといって有罪にしてはいけない』くらいにしか思っていないよね。有罪にするために検察側に課されたハードルが本当はものすごく高いものだっていうことまでわかっている人なんてほとんどいない」

 森元の言いたいことはよくわかる。「疑わしきは罰せず」という格言は、刑事裁判における「疑わしきは被告人の利益に」という原則に通じる。事実がはっきりしないときは被告人に有利な扱いをしなければならず、たとえ犯人である疑いが十分にあっても、そう断定できない限り被告人に無罪の判決を下さなければならない。厳密に運用すれば当然真犯人を無罪にする可能性もあるが、それでもこの原則は人権に関する国際法、国際人権法の一部になっているのだ。

「問題はそれだけじゃなくて」と三浦。「現実には裁判所がその原則を無視して有罪判決を出しまくっていることと、大多数の人がその原則に否定的な印象を持ってるってことですよね」

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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