◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第54回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第54回
第四章──原点 01
いつもとは反対方向の列車に乗る志鶴。人知れず訪れるその場所は──。

「そうそう。まず普通の人は、犯罪を疑われるくらいに悪い人間なら有罪になって当然っていう認識だよね。私は弁護士じゃないけどカタギの人たちと話してて一番嚙(か)み合わないのはそこ」

「法律が勧善懲悪を実現する手段だと勘違いしてる人は多いですね。弁護士であれば、人間的には許せない行為をした人物でも、不起訴や無罪になればそのこと自体を歓迎できるけど、法曹でない人にはこの感覚はわかってもらえませんね」

「それで言うと、ちょっと前にあったじゃない、性犯罪への裁判所の判決に抗議するデモが──?」

 二〇一九年、女性が被害者となった性犯罪の裁判で裁判官が「同意のない性交」を認定しながら被告人男性に対して無罪判決を下すということが複数の裁判所で続けて起き、その司法判断への抗議活動として女性が中心となったデモが全国数ヵ所で開催された。

「明らかに性犯罪を犯している人間が無罪になるのは許せないって。私自身女性だし、気持ちはわかるのよ気持ちは。ただSNSなんかで意見を表明した弁護士のほとんどは判決文を検証して無罪判決そのものは支持していた。でもデモに参加した女性たちは本気で『裁判官に人権教育と性教育を』って訴えてたし、なかにはSNSに『性暴力の無罪の撤廃を求めるデモに来ました』って書き込んじゃった人までいた。ほんと、大多数の人の素朴な感情と無罪推定の原則って相容(あいい)れないんだなあって、つくづく思ったわ」

 森元は眉根を寄せて首を振った。

「権利を主張しているつもりなんでしょうが、むしろ反対に自分たちを守ってくれるはずの原理原則を踏みにじろうとする行為なんだって気づいてないんでしょうね」

「まさに三浦君の言う教育の敗北ってやつだ」志鶴も同意する。

「テレビの影響も大きいと思うのよねえ」森元だ。「とくにドラマ。刑事弁護士を主人公とするドラマってほぼ百パーセント、依頼人は無実の善人で、弁護士が調査とか検証とかで事件の真相とか真犯人を解き明かして無罪判決を勝ち取る、っていうストーリーじゃない? あれを観(み)た視聴者が、無罪判決ってそういう条件がそろって初めて出されるものなんだって思うのも無理はないよね。たとえ悪人だろうが真犯人だろうが真相が不明だろうが、検察側の有罪立証に疑いを差し挟む余地があれば問答無用で無罪。そうあるべきでしょう本来は。私思うんだけど、刑事弁護士が無実の人を弁護したり事件を解決したりするドラマは今後一切法律で禁止にするべきよ」

 志鶴と三浦は思わず微笑した。

「それなら無罪判決を勝ち取るのもNGにしないと」志鶴は言った。「現実には百回やって一回勝てるかどうかの世界なんですから」

「それ!」森元は芝居がかった顔と声音で言った。「そこが一番重要だわ」

 すると三浦がため息をついた。

「……実際、毎回無罪を勝ち取るドラマを観てると虚(むな)しくなる」そこで志鶴に目を向けた。「そういえば何だったんだ、川村(かわむら)が弁護士を目指したきっかけって? 高校生のとき司法試験受けるのを決めたとは聞いたけど、言いたくないって言ってたよな? 教えてもらえないかな……最後に」

 最後というのは、この四月いっぱいで今いる事務所から大手に移籍し、刑事弁護からも足を洗うという意味だ。

 森元も興味ありそうに志鶴を見た。彼女にも話していない。ちょうど今朝、篠原尊の墓参りをしたことに何か巡り合わせのようなものを感じた。

 ぬるくなった玄米茶をすすって茶碗(ちゃわん)を置いた。

「同級生がバイクで死んだ。いや、殺された──警察に」

(つづく)

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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