◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第57回

遺族が提起した国家賠償請求訴訟。すなわちその相手は国家権力だった。
「日本の警察組織のヘッドクォーターから白バイ事故を注意するお達しが来た直後、まさにその白バイが一般車両を相手に死亡事故を起こした。白バイ隊員個人の問題を離れてX県警がナーバスになるのも当然か。欠けていたパズルのピースがどんどん埋まってくる感じね」
「Aさんは口頭弁論に原告側証人として出廷し、今のような内容を証言してくれました」
「当然警察側の白バイ隊員も当事者として尋問を受け、Aさんとは真っ向から対立する内容を証言したはず。警察官が偽証のプロっていうのはこの世界の常識。まして白バイ隊員は、警察組織を背負うだけでなく自分が犯罪者になる危険もあるから必死よね。法廷に火花が散るのが目に見えるようだわ」
火花散るX県地裁大法廷。その傍聴席に十七歳の志鶴もいた。
篠原の両親の友人を中心に、尊の無実を信じて国賠訴訟を支援するグループが結成されていた。志鶴は彼らやバンド仲間と共に現地入りしていた。本当はすべての期日を傍聴したかったが、口頭弁論が開かれるのは平日で学生には無理だった。たまたま高校の創立記念日と重なる日があったので、長距離バスを使って〇泊二日の弾丸日程を組み参加した。
志鶴が傍聴したのは証人尋問と当事者尋問が行われる日だった。午前と午後、一日がかりで原告側の証人と被告である白バイ隊員に尋問を行う。
初めて傍聴する裁判。志鶴は法廷で起こるすべてを可能な限り自分の目で見、耳で聞き、肌で感じ取った。
原告側証人A氏は七十代前半の朴訥(ぼくとつ)な男性で、尋問に答えるまでに間が空いたり口ごもったりすることはあったが、終始自らの記憶や感情に忠実に話しているように見えた。そんな彼に対し、被告側の代理人を務める男性弁護士が行った反対尋問は、志鶴には意地悪な揚げ足取りとしか感じられなかった。
「Aさん。あなたこの一ヵ月の間に耳鼻科を受診したことはありますか」
「じゅしん……」A氏は少し考え、「あ、行きました」
「行かれましたね、B医院に。こちらにそのときの診療録もあります」被告代理人は証拠を提示した。「こちらに『補聴器の購入について相談を受けた』とあります。最近、聞こえが悪くなったから補聴器をつけようと思っている。そのことで耳鼻科へ行ったんですよね」
「……はい、そうです」A氏ははっとして、「ですが、白バイのエンジン音の大きさくらいはわかります。あの事故のときはたしかにものすごい音が──」
すると裁判長の男性が彼の言葉をさえぎった。「証人は訊(き)かれたことだけを答えるように」
気難しそうな裁判長も意地悪だ。志鶴はそう思った。
不本意そうに口をつぐんだA氏に、被告代理人はすかさず声量をぐっと落とし早口で訊ねた。
「ブレーキ痕についてお訊きします」
聞き取れなかったA氏が「はい? 何ですか」と大きな声で訊き返すと被告代理人はほくそ笑み、今度はわざとらしく口を動かしながらゆっくりと大声で言った。
「ブレーキ痕・に・ついて・お訊きします・と言ったんです」そこで言葉を切った。「大丈夫ですか? やっぱりつけた方がいいんじゃないですかね、補聴器」
傍聴席から複数の嘲るような笑い声があがった。一角に五人ほどスーツ姿の体格のよい男性が固まって座っている。篠原尊支援者の一人が開廷前「あれ、X県警の警官だよ」と志鶴に教えてくれた。そこからだった。
事故発生直後、路面に白バイのブレーキ痕はなかったというA氏の証言を弾劾するに当たり、被告代理人は今度は彼の視力と記憶力の衰えをあげつらう方法をとった。志鶴には陰険な個人攻撃としか思えなかった。挑発的な尋問にA氏が感情を高ぶらせる場面もあった。裁判長はA氏をたしなめたが志鶴は憤慨した。責めるべきは尋問者の方ではないか。