◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第58回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第58回

第四章──原点 05
X県地裁の大法廷──。被告の白バイ隊員がいよいよ証人席に着く。

 事故発見直後、A氏が篠原尊──被告代理人は終始「被疑者」と呼んだ──の体を圧し潰していた原付バイクをどけてその場に倒したという証言について、被告代理人は警察の鑑識による鑑定でA氏の指紋が検出されていないという「事実」を提示した。

「原付バイクからAさんの指紋が一つも検出されていないのは、あなたが本当は原付バイクをどかすどころか触ってさえいなかったから。そうですね」

「いや。私は確かにバイクをどけた」

「あなたの記憶のなかでは、ということですか」

「記憶っていうか、それが事実なんです」

「しかしそれを裏づける証拠はない。違いますか? いやそうじゃない、証拠があるならあると言ってください」

 A氏は困ったようにため息をついて唸(うな)り、視線を巡らせしばらく考えていたがうなだれて「わかりません。私には……」と答えた。

 すると被告代理人は間髪を入れず「尋問を終わります!」と裁判長に告げた。

 しばし呆然(ぼうぜん)としていたA氏は裁判長に促され証人席を立ったが納得がいかない様子で首を振りながら傍聴席に戻った。弾劾の筋道にそれほど説得力は感じなかったが、被告代理人はA氏をやりこめたという表面的な印象を与えることには成功していた。

 A氏と入れ替わりで証人席に着いた被告の白バイ隊員は二十七歳の颯爽(さっそう)とした男性だった。主尋問で被告代理人が聞き出したプロフィールによれば、X県警代表として全国の白バイの競技会にも出場した経験を持つ優秀な警察官だ。事故当時の傷も癒えたのだろう、背筋をぴんと伸ばして椅子に座る姿勢を終始崩さず、法廷内に響き渡る発声ではきはきと質問に答え、篠原尊がセンターラインをはみ出して突っ込んできたことが事故の原因だというこれまでのストーリーを淀(よど)みなく上書きした。

 志鶴は信じられないような思いでそれを見ていた。

 警察官ともあろう者が裁判で平然と噓を証言している。支援者の集まりで小池弁護士の話を聞いた志鶴にはそうとしか解釈できなかった。

 小池弁護士による見立てはこうだった。

 警察庁の通達文を受けてX県警ではパトカーや白バイによる「体験型・実践型教養訓練」が公道で行われ、事故が起きた現場付近の国道は白バイによる高速走行の練習場となっていた。今回の事故の一方の当事者である白バイ警官も、いつものようにサイレンも鳴らさず百キロ前後の高速で現場付近を走行していたところ、バイクのコントロールを失いセンターラインを対向車線へとはみ出して転倒、対向車線の路肩で止まっていたスーパーカブに衝突して篠原尊がスーパーカブとガードレールの間に挟まれた。

 ほどなくA氏が現場に駆けつけ、その後パトカーや救急車も臨場した。事故の第一報を受けたX県警の関係者たちの頭には、世間の非難や糾弾から白バイ警官とX県警を、ひいては日本の警察組織そのものをいかに守るかということしかなかった。

 事故の相手方が意識不明の状態で事故の瞬間を目撃した第三者はいなかったという状況は、彼らが職業倫理に反する行為に手を染めるのを後押しする強力なきっかけになったのではないか。

次記事

前記事

里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

◇自著を語る◇ 中澤日菜子『お願いおむらいす』
思い出の味 ◈ 平野啓一郎