◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第5回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第5回
序章──予震 05
裁判員や裁判官の心証は、シロへと傾いている。志鶴が確信したそのとき──。


「学君……栗原が亡くなったのは、被告人が凶器で刺した傷が原因です──」

 志鶴は立ち上がりながら声をあげた。

「異議があります! ただいまの陳述は、犯罪の成否に関する事実関係についての意見で、認められていません。刑事訴訟法第292条の2第1項に反します」

「そうですね」と裁判長。「被害者遺族の方は、発言を訂正してください」

「──わかりました」栗原未央はうつむいて考えるようなそぶりを見せ、顔を上げた。「人が──一人の人間が死んでいるんです。私の夫です……いえ、夫でした。頑張って、仕事でたくさんの人を救いたい、って、いつも言ってました……でも、もうできません。あっていいんですか。人が死んでいるのに、お腹が刺されたのに……被害者がいるのに、被告人が一切責任を問われないなんてこと……」

 言葉を詰まらせた。嗚咽がこみ上げる。これまでにも、感情の波に襲われたことはあったように見えた。が、今度はもう、彼女は我慢しようとはしなかった。肩を震わせ、唇を引き結んで涙をこぼした。

 法廷内が一気に沈痛な空気に染まる。

 裁判員たちの顔に、共感と同情の表情が浮かんだ。四十代既婚の女性会社員が眉を曇らせた。六十代男性が眼鏡を外し、指で涙を拭う。ぐすん、と鼻をすする音がして志鶴が目を向けると、初日からもう一人と交代で書記官席についていた書記官のまだ若い女性が、眼鏡の奥の目を真っ赤にしていた。

 これまで懸命に感情を抑えてきた栗原学の妻の痛切なすすり泣きは、どんな言辞より雄弁だった。まずい。何とかしなくては。

 志鶴は、裁判長に陳述を終わらせるべく進言しようと立ち上がった。

 その瞬間──火のついたような赤ん坊の泣き声が法廷の空気を切り裂いた。目で追う前に志鶴にはその震源がわかっている。傍聴席の最前列で栗原の母親が抱く赤ん坊は、ほとんどの時間すやすやと眠っていたが、審理の最中、突然声をあげて泣き出すこともあり、あまり泣き止(や)まないときは、祖母である彼女が法廷の外へあやしに出て、泣き止んでから戻ってくるのが常だった。

 志鶴は泣き声の方へと目を向けた。

 胸の中で赤ん坊が泣き出すと、栗原学の母親はいつものように席を立ち、体を揺すって孫をあやした。が、今日は法廷を出ていこうとはしなかった。ばかりか、その場に踏みとどまって赤ん坊の顔に顔を寄せると、自分も声をあげて泣き始めた。

「悔しいんだよねえ。お父さんのこと、みんなの前で人殺しみたいに言われて」

 泣きながら彼女は、わざわざ周囲に聞かせるように大声で言い放った。六十代の前半だろうか。とても品のよい女性である彼女が、これまで法廷で声をあげたことはなかった。が、息子の妻と同様、もはや感情を抑えようとはせず、むしろそれを積極的にぶちまけにかかっている。

「殺されたのは、お父さんの方なのにねえ」

 志鶴は立ち上がった。

「裁判長! 傍聴人の不規則発言を直ちに止めてください」

 すると、裁判長が応じる前に栗原学の母親が、きっと志鶴をにらみつけ、口を開いた。

「ずっと我慢してきましたけどね、あんな真面目で親孝行だった息子のこと、よくもまあ人殺し呼ばわりしてくれましたね。あの子が死んで反論できないのをいいことに。弁護士だからって、何を言ってもいいんですか。私──あなたのこと、絶対許せない!」

 そう叫ぶと彼女はまた、声をあげて泣き始めた。赤ん坊と栗原未央の泣き声もいっそう大きくなり、重なって、法廷全体に膨れ上がった。

(つづく)

連載第6回

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

今月のイチオシ本【デビュー小説】
人との出会いは宝だ!