◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第63回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第63回
断章──増山 01
増山淳彦の〝自供〟の裏には何があったのか──。衝撃の新章突入!

 断章──増山

 

     1
 

 母親が作った鶏(とり)のから揚げにかぶりつくと、喉につかえて息ができなくなった。恐慌が襲った。

「──うるせえっつってんだよ!」

 耳元ですごみの利いた声。照明がまぶしい。視界の隅に凶悪な目。鼻が痛い。慌てて息を吸い込むと喉がひょおおおと鳴った。咳(せ)き込んで涙がにじむ。

 チッという舌打ちとともに鼻から圧迫が消えた。直後、横腹に衝撃。内臓がよじれ、一瞬息ができなくなって目の前が赤黒くなる。自分の身に起きていることが少しずつ理解できてきた。淳彦(あつひこ)の鼻をつまんだ者が今度は拳骨(げんこつ)をくれたのだ。

 目の前にぬっと顔が現れ淳彦を見下ろす。

 顔の両側を短く刈り上げ、てっぺんは金髪。日焼けした顔に、蛍光灯の陰になっても白目が目立つ目。40番。淳彦のあとに足立南署留置場のこの雑居房──第六居室に入ってきた男だ。オレオレ詐欺で捕まったと聞くまでは暴力沙汰(ざた)に違いないと思っていた。睾丸(こうがん)が縮み上がった。40番は無表情に淳彦を見つめた。

「うつ伏せで寝ろ。な?」優しいとも感じられる声。「それかもう息すんな」

 うなずくので精一杯だった。

 ガタッ! と廊下で音がして、小走りの靴音が近づいてきた。廊下の向かい側、六つ並んだ雑居房を左右に見渡す位置には机が一つあり、留置官が常駐している。居室には監視カメラもあり、二十四時間見張られている。同室者同士の喧嘩(けんか)などがあれば留置官が駆けつけて止める。

「何だ、どうした?」

 立ち止まった留置官が鉄格子と金網の向こうで大声を出した。

 スポーツブランドの黒いジャージを着た40番が淳彦から離れた。淳彦も反射的に半身を起こす。

「別に。こいつがいびきかいててみんなに迷惑だから、止めただけです」40番が動じる様子もなく答えた。

「そうか」

 ものわかりよく言ったまだ若い留置官は、淳彦を見ると思いきり顔を歪(ゆが)め、汚物を見るような目をした。

「37番、本当か?」声が大きくなった。

 今は何時だろう。就寝時間はわずかに暗くなるとはいえ、八畳ほどの居室は一日中蛍光灯で照らされているので体内時計は壊れている。鉄格子越しに廊下の時計を見ると二時半を示していた。目の前の留置官は、淳彦の朝の布団の畳み方が汚かったという理由で昨夜、就寝の際布団を敷くことを禁じた男だ。淳彦は四人の同室者で一人だけ、ざらざらしたカーペットの上にじかに寝ていた。体のあちこちが痛いし眠い。

「……お、俺、寝てたから」淳彦は答えた。

「ああ?」眉を寄せた。「質問に答えろよ。今の40番の話、本当か?」

 淳彦はうなずいた。すると留置官が叫んだ。

「てめえ、秩序乱しといてどういう態度だ! 正座しろ、正座」

 淳彦は言われたとおり正座した。もともと苦手でふだんしないためか、みしっと体重がかかった両膝とすねが骨折でもしたように痛む。思わず顔をしかめた。

「もぞもぞしてんじゃねえ。しゃんとしろ、しゃんと」留置官が怒鳴る。

 淳彦はどうしていいかわからず、膝の痛みもあって混乱した。

「何でいびきをかいた?」留置官が言った。

「え……? さあ」

「『さあ』じゃねえぞコラ、舐(な)めてんのか!」

 怒鳴られて身がすくんだ。体が勝手にぐらぐらする。涙がにじんできた。

「わかんねえなら教えてやるよ」と留置官。「お前が太ってるからだよ。首にブヨブヨ脂肪がついてるから、豚みたいにブヒブヒ鳴く」

「あ痛たたたた」淳彦は苦痛に耐えかねて足を崩し床に手をついた。

「おいッ、誰が崩していいと言ったあ!?」留置官が怒鳴った。

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。