◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第68回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第68回
断章──増山 06
すべては恐ろしい偶然の産物だ──淳彦の訴えは刑事たちに届くのか?


 だが十六年分年を取った淳彦の空想は以前のようには続かなかった。自分の人生が、けがれのない少女に愛されることなど一度もなく終わっていくだろうという身も蓋もない現実の重みの方がはるかに勝ってしまっている。煙草を二本ほど喫い終えた頃だろうか、不意に、怒りと虚(むな)しさと惨めさが混じり合った感情が込み上げてきた。あのかわいらしい少女も、どうせいずれは中学校の頃自分をいじめていたようなろくでもないヤンキー男と付き合って、他の女どものように精液まみれの不潔なメスに堕(お)ちてゆくのだ──そう思うと、先ほどまでの好意は憎悪に変わった。

 その場にいるのが耐えがたくなり、原付バイクに乗って家に帰った。その後は新聞配達の最中に通りかかっても、グラウンドの方はわざと見ないようにしていた。

 試合からしばらくして、テレビのニュースで綿貫絵里香の遺体発見が報じられたとき、生前の写真を見た淳彦はあっと思った。試合で自分が目を惹かれた少女であるとわかったからだ。だがそれはたんなる偶然だ。警察が家を訪ねてきたとき、まさかソフトボール部の試合を観ていたことが問題になるとは思わなかった。もちろん警察で自分からは言わないよう気をつけていた。そんなことで余計な疑いを買うのは馬鹿らしい。

 今──自分が隠していたことを、思いもよらぬ形で目の前に突きつけられ、頭の中が真っ白になった。

「テレビのニュースで観るまで、絵里香ちゃんのことは知らなかった──お前のその言葉は噓だった」係長が言う。「つまり、今回の事件に関係ないという言葉も、噓ってことだ。だよなあ増山?」

「ち──違います」

「何が違うんだよ!」係長が耳元で吠(ほ)えた。「お前がついさっき認めたんじゃないか。もしお前が絵里香ちゃんを知らなかったというのが噓だったら、事件に関係ないという言葉も噓だってことになるってな」そこで係長が壁際の机に向かうノッポを見た。「おい、ちゃんと記録したよな、増山が言った言葉?」

 ノッポが振り返り、うなずいた。「記録してあります!」

「ほら見ろお」係長が淳彦に向き直る。「お前はニュースで観る前から絵里香ちゃんを知っていた。にもかかわらず知らなかったと噓をついた。つまりこの事件には関係ないと言ってるのも噓ってことだ」

「ぐ、偶然なんです──」

「何が偶然だ」

「た、たまたま試合を観て、でもそのときは彼女だって知らなくて……そのあとニュースを観て、もしかしたらって」

 係長が淳彦を見た。また怒鳴られるのではないかとすくんだが、係長は穏やかに言った。

「じゃあ何で隠してた?」

「……え」

「お前、証拠見せるまで、星栄中学校にソフトボール部の試合観に行ったこと、黙ってたよな。何で隠してた? 何度も訊いたよな。生前の綿貫絵里香さんを見たことなかったかって」

「な、名前知らなかったから」

「ニュースで観て知ってるって言ってたろうが」

「ソフトボールの試合のときは知りませんでした」

「でも今は知ってる。なのになぜソフトボールの試合で絵里香ちゃんを見たことを隠したんだっつってんだよ」

 絶句する。試合のときはまだ、自分が目を惹かれた子が綿貫絵里香だと知らなかった。だが試合のことを話さなかった理由はそれだけではない。

「……怪しまれると思ったから」小さな声になった。

「今何つった? もう一回言ってみろ」

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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