◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第70回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第70回
断章──増山 08
なんとか無実を主張する淳彦に向かって、刑事が提案したのは……?

 淳彦は係長を見、ボスを見た。二人は厳しい目で見返してきた。本当にそうしなくてはいけないのか? これは自分が殺人を犯したと認める書類なのでは? 淳彦は混乱する。

「署名しろ」係長がペンを取り、淳彦の手に無理やり握らせた。

「……書いたら、帰してもらえますか?」淳彦は訊いた。

「言ったよな」係長が冷ややかに答えた。「金輪際お前を逃がさないって。生きて娑婆に戻れると思ってんじゃねえぞ、この強姦魔の人殺しが」

 淳彦の体が硬直する。たった今起きていることは淳彦の理解も忍耐も完全に超えていた。何が何だかわからず、どうしてよいか見当もつかなかった。言われたとおり署名しようとしたが、ペンを握る手が勝手にぶるぶると震え、ついにはペンを落としてしまった。ぼたぼたぼたっと大粒の涙も机に落ちる。鼻水とよだれもだ。

「う……ごめんなさい……もう勘弁してください……」口からそう声が出た。あとはもう言葉にならず、淳彦は幼児のように泣きじゃくっていた。

「この野郎──」係長が唸(うな)った。「泣けば許してもらえるとでも思ってんのか! 警察舐めるのもいい加減にしろよ」

 だが淳彦には泣くことしかできなかった。するとボスが係長に向かって片手をさっと挙げた。係長が口をつぐむ。

「増山あ」ボスが淳彦に声をかけた。「どうした。つらいか?」

 さっきまでより優しい声音だ。淳彦はうなずいた。するとボスは破顔した。

「はっはっは。素直じゃないか。そう、人間は素直が一番だ。ここから解放されて家に帰りたい。そうだよな?」

 淳彦はうなずく。

「だけど殺人の罪は認めたくない。そうだな?」

 淳彦は一瞬係長を見てから、用心深くうなずく。

「まあそうだろうな。お前の立場なら誰だってそう考える。だが俺たちの立場ってもんもあるぞ。警察は何もあてずっぽうでお前をここに連れてきたわけじゃない。捜査をして疑うに足りると判断したからだ。それはわかるよな?」

 どうだろうか。だが淳彦はうなずいていた。ひょっとしたらボスは自分に助け船を出そうとしてくれているのかもしれない。ここで機嫌を損ねるような真似はしたくなかった。

「お前が一部でも罪を認めない限り、お前をここから帰すわけにはいかない。それがわれわれ警察の立場だ。わかるか?」

 わからなかったが、うなずいた。

「われわれはお前がやったと信じている。だがお前はやっていないとあくまで言い張る。このままだと永遠に平行線だ。まあ、俺たちはそれでもかまわん。仕事だから、お前が否定する限り、必要ならこうして一年でも二年でも取調べを続けるだけだ。だが増山、お前もそれでいいのか?」

 淳彦は慌てて首を振った。

「ふむ。とすれば解決策は一つしかないな。聞きたいか?」

「──聞きたいです」必死で答えた。

「その答えはな、裁判だ」

「裁判……」

「ああ。われわれはお前を有罪だと思ってる。だがお前は無実を訴えてる。それをここで延々やり合っててもらちは明かない。どちらが正しいか客観的に判断を下す──けりをつけることができるのは裁判官だけだ。わかるか?」

 淳彦はうなずいた。

「増山、お前、無実なんだよな?」

 淳彦は勢い込んでうなずく。

「だったら、堂々と裁判官にそう訴えればいい。お前の主張が正しいと思えば裁判官は無罪の判決を下してくれる。そうなればお前は晴れて自由の身だ」

 淳彦は想像した。

「どうだ。ここまでの話、理解できるか?」

「……はい」

「だったら、ここで罪を認めて何の問題になるんだ? ここで認めても裁判で裁判官に向かって否定すればいいだけの話だろう。私は本当はやっていません、って。そうだろ?」

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。