◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第70回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第70回
断章──増山 08
なんとか無実を主張する淳彦に向かって、刑事が提案したのは……?

 考える淳彦に向かって、ボスが続ける。

「お前があくまで全面的に否定するっていうなら、俺たちは、なるほど、なら徹底的に取調べをやってやろう、としかならんわな。こっちはいくらでも人数がいるし、いくら時間をかけたっていい。それで困るのはお前じゃないか、増山?」

 淳彦は恐怖と共にうなずいた。

「でも、今のお前はまだ、この書面に署名するのには抵抗がある」ボスは係長が読み上げた調書を示した。「そういうことだよな?」

「はい」

「せっかく二人がかりで労力かけて作って、わざわざ国民の血税で買った紙を使ってプリントまでしてくれた。それでもか?」

 淳彦はこちらをにらんでいる係長を見て、すぐ目をそらした。「……すみません」

 ボスが腕組みをし、天井を仰いだ。何かを考えているようだ。しばらくすると大きく息を吐き、視線を戻した。

「──わかった。じゃあこうしよう。二人には悪いが、もう一度調書を作り直してもらう。内容も変えてな。殺人は外して死体遺棄だけにする。文章も最小限に」

「ちょっと待った」と声をあげたのは係長だ。「そんな甘いこと言っていいんですか? 絶対調子に乗ってつけ上がりますよ、こいつは」

「今回だけだ」ボスはたしなめるように言って、「今回だけの特別措置として被疑事実をうんと軽くしたものに書き直す。殺人と比べたら死体遺棄なんてしょんべん同然だ。本当はしないが、今回だけ特別に大まけしてやる。それならどうだ、増山?」

 淳彦は考えた。ボスの言うとおりにすれば、とりあえず殺人の罪を認めなくてすむ。言うとおりにしなければ一年も二年もここに閉じ込められて取調べを受けるしかない。とすれば──答えは決まっている。

 淳彦はうなずいた。

「よし」ボスは係長を見た。「すまんが、調書を作り直してくれ」

「今回だけ特別、ですよね?」係長が不満げに念を押す。

 ボスは淳彦を見た。

「お前のために調書を書き直すのは今回だけ。それでいいな、増山?」

「はい」淳彦は答えた。

「死体遺棄について認めるな?」

 淳彦はためらった。

「楽になりたいんだろ、増山ちゃん」イガグリが言った。

 淳彦はうなずいた。

「じゃあとりあえず認めちゃえって。死体、捨てたのあなただよね?」

「……はい」目の前の苦しみから逃れたい。その一心でそう言っていた。

「──仕方ない。わかりました」係長は立ち上がり、ノッポの方へ向かった。

 書き直された調書は、ボスの言葉どおり、さっきとは打って変わって簡略なものだった。

「『今回の事件を起こしたときの状況について話します。私は、令和 × 年二月二十日の夜、綿貫絵里香さんの遺体を荒川河川敷に遺棄しました。』」プリントされた紙を見ながら、係長がまた読み上げた。「『これが今回の事件を起こしたときの状況です。』」

 係長は淳彦の前にその紙を置くと、「ここに署名。ここに指印」と機械的に示した。

 淳彦はペンを取り──今度はさっきのように手が震えることはなかった──指示された場所に氏名を記すと、ペンを置き、朱肉につけた右手の親指で指印を押した。

 ボスが手を伸ばし、淳彦の前から調書を取り上げた。淳彦が顔を上げると、ボスと係長とイガグリが互いにがっちり見交わしていた。その瞬間、淳彦は何かとてつもなく不吉な予感を覚えた。ボスはマジックミラーの方に目を向けると調書を持ったまま立ち上がり、ドアを開け外へ出た。席を立ったノッポがドアの前に移動した。係長とイガグリは立ったまま淳彦をじっと見ている。淳彦を不安が襲った。胃がぎゅーっと縮こまる。自分の心臓の音だけが聞こえた。

 どれくらい待っただろうか。ふたたびドアが開いたとき、ボスは、手錠とロープを持った二人の刑事を従えていた。

「時間は?」ボスが言うと、その一人が腕時計を見て時刻を叫んだ。

 ボスは淳彦に近づき、手にしていた一枚の紙を向けた。

「逮捕状だ。増山淳彦、お前を、死体遺棄の容疑で逮捕する」

 何となく、あの書面に署名押印すればここから出してもらえるようなつもりになっていた。あぜんとする淳彦に、手錠と腰縄を持った刑事たちが靴音を鳴らして左右から迫ってきた。

(つづく)
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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。