◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第72回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第72回
断章──増山 10
黙秘する淳彦に刑事は言う。「君と君の弁護士は決定的な間違いを犯した」

 

 翌朝、ボスは留置場に淳彦を迎えに来なかった。迎えに来たのはノッポとイガグリで、儀式はなかった。ほっとしつつ、いつ不意打ちの暴力があるかもしれないという緊張も去らなかった。だが刑事たちは淳彦を事務的に取調室へ連れて行った。取調室に係長はいたが、ボスの姿はなかった。

 この日の取調べもノッポが行った。淳彦は昨日と同じように「黙秘します」と告げ、あとは黙っていた。ノッポも昨日と同じように、だが昨日ほど焦った様子はなく、淳彦に向かって黙秘をやめさせようと働きかけた。淳彦は昨日と同じように、彼の言葉を受け流した。この日の取調べも午前中で終わった。

 日曜日なので昨日と同様、ここでの唯一の楽しみである自弁はない。その代わり紙パック入りのジュースと菓子を自費で購入できる。昼食の食パンを食べたあと、淳彦は購入したカフェオレとロールケーキを勝利の喜びと共に味わった。

 午後の接見では、川村弁護士が昨日の淳彦の頼みを受け実家から持ってきた、『マジカルアイドルプリンセス』という美少女たちが活躍するゲームのデータカードケースを見せてくれた。警察に没収されていないか心配だったのだ。母親との接見が禁じられていることはつらかったが、この調子なら黙秘を続けられるかもしれない──そう思えた。

 

 月曜日の朝。留置場に迎えに来たのはボスとノッポだった。ノッポは今日も綿貫絵里香の遺影を胸の前で持っていた。

「昨日は俺が休んで寂しかったか?」それがボスの第一声だった。

 機嫌がよさそうだ。だが、嫌な予感しかしない。

 遺影への合掌のあと、ボスが右手を差し出してきた。手錠したまま上げた淳彦の右手は小刻みに震えていた。ボスはすっとその手を握った。淳彦は顔をしかめ、全身をこわばらせた。が、ボスはいつものようにいきなり力を込めてはこず、淳彦の手を柔らかく握ったままだった。淳彦はボスの顔を見た。ボスは微笑んだ。

「この仕事を長くやってるとな、世の中に『まともな人間』なんていないってことがよくわかる。人間は誰だって大なり小なり壊れてる。犯罪者を異常とは思わん。犯罪行為も人間性の一部なんだよ。俺はな、増山、お前のことを決して根っからの極悪人とは思っていない。警察官として一人の人間として、お前の力になってやりたいと心の底から思っている。だからこそお前を利用しようとする人間が許せない。誰の話をしてるか、わかるな?」

 淳彦は首をかしげた。

「あの女弁護士だ」ボスが言った。「増山、独裁国家でもないこの日本で、二言目には『人権がー』っておだ上げてるのがどういう連中か知ってるか? 本当に人権のためにやってると思ったら大間違い。人権屋ってな、それでおまんま食ってる活動家だぞ。あの女弁護士もそのたぐいだな。お前みたいに同情の余地のない凶悪犯罪者の弁護は、活動家のお仲間への強烈なアピールになる。そういう連中のシンパやスポンサーの覚えがめでたくなれば、食いぶちには困らない。若くて美人な弁護士なら政治家としてかつぎ出されるって目もあるだろう。いずれにしても、あの川村って弁護士は、お前のことを親身に思って弁護活動してるんじゃない。すべては自分のため、仲間内で一目置かれるためだ。お前に、黙秘なんて無茶を勧めたのもそれが動機だ」

次記事
前記事
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。