◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第72回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第72回
断章──増山 10
黙秘する淳彦に刑事は言う。「君と君の弁護士は決定的な間違いを犯した」

 ボスはまだ淳彦の手を握ったままだった。淳彦は、ボスがいつまた強く握ってくるか気が気でなかった。

「わからんか? 黙秘すれば不利になるのはお前だ。お前の場合、このまま黙秘を続けて有罪になれば間違いなく死刑だ。だがお前に死刑判決が下っても、お前の弁護士はへっちゃらだろうよ。自分のことじゃないんだから。いや、むしろその方が都合がいいんじゃないか」

 どういう意味だろう。ボスは淳彦の内心を読んだかのように、

「知らなかったか? あの弁護士は死刑制度に反対して活動もしてる。お前に死刑判決が下ればそれにかこつけてこれ幸いと死刑制度を批判して世間の注目を集め、お仲間相手にポイントも稼げるって寸法だ。お前の死刑が執行されてもな。案外、それが狙いでお前に黙秘なんて無謀なことをさせてるのかもなあ」

 ボスはにやりと歯を見せた。

「一つ言えるのは、あの女弁護士の口車に乗せられたお前が無理筋の黙秘を続けた結果、どんなにひどい判決を言い渡されても、彼女自身は痛くもかゆくもないばかりか、お前のおふくろさんから受け取った報酬を返したりしないってことだ」

 ボスの言っていることは本当のように思えた。

 川村弁護士のことを信用しはじめていた淳彦の気持ちが大きく揺らいだ。ボスが真顔で淳彦を見つめた。

「本当に黙秘でいいのか、増山? どんなにきれいごと言ってても弁護士にとって依頼人の苦しみなんてしょせん他人事(ひとごと)、飯の種にすぎんのだぞ。他人の不幸で飯を食ってる人間の薄汚い金儲(かねもう)けの道具にされて死んでもいい──お前が本当に自分でそう決心したなら止めはせん。だが、あの女弁護士にお前と心中するつもりはさらさらないってことだけはお前のために言っておくぞ」

 淳彦はボスを見つめた。ボスの手は座布団のように厚く柔らかい。今この瞬間、彼はこれまでのように怖い人には見えなかった。本当に自分を気にかけてくれているように感じた。

「それともう一つ」ボスが言う。「お前の女弁護士はおそらく、警察や検察がお前の自白頼みで突き進んでると思ってるはずだ。肝心な物証がないなら、黙秘してれば何とかなる──そうたかをくくってる。だろう? だがそれは大間違いだ。たとえお前がこれから完黙を貫くことができたとして、俺たちにはお前を有罪にできる材料がある」

 淳彦は息を吞む。材料とは何だ?

「まあ、すぐにわかる」ボスが穏やかに言った。「今日もお互い紳士的にいこうじゃないか」

 ボスは、ずっと握っていた淳彦の手を、最後まで痛めつけることなく軽く振ると、手を放した。

 その日最初に取調べを行ったのは係長だった。淳彦の正面に座ると、しばらくじっと淳彦をにらみつけてきた。淳彦は目をそらした。それでも係長が「取調べを始める」と言ったとき、「も、黙秘します」と答えることはできた。

「三月十三日──」係長がまったく意に介す様子もなく言った。「君は、綿貫絵里香さんの死体遺棄についてやったと認め、そう記された供述調書にも署名、押印した。一度は認めたのに黙秘する理由は何だ?」

 淳彦は答えなかった。

「事件の真相究明のための捜査に協力するつもりも、自分がした行為について反省するつもりもない。そういうことでいいか? この取調べの録画映像は裁判で証拠として採用されるかもしれない。裁判員や裁判官が観る可能性も高い。黙秘を続けるということは、今私が言ったことを認めるということでいいんだな?」

 
里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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