◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第74回

「それが君の弁解か?」淳彦の言葉を聞いて検事の表情は暗くなり……。
心臓がどきどきする。岩切検事の言っているとおりだとしか思えないからだ。一体なぜこんなことに?
「つまり今になって否認することには何のメリットもないばかりか、悪いことしかないということだ。そして君は、たった一人の肉親であるおふくろさんのことは考えているか?」
淳彦はうなずいた。彼女のことを考えない日はない。
「本当かな? 今、日本じゅうの人は、君こそが綿貫絵里香さんを殺して死体を遺棄した犯人だと考えている。何十人ものマスコミ陣が君の家に押し寄せ、おふくろさんを取り囲んで質問責めにし、二十四時間監視している。ニュースには君の家もおふくろさんも何度も映っている。集団心理として、世間の人たちの怒りは、君のおふくろさんにも向かう。実際、家の周りには野次馬が押しかけているし、なかには君のおふくろさんに心ない誹謗(ひぼう)や中傷を投げかける者もいれば、いやがらせの電話をかけたり手紙を送ったりする者もいるらしいじゃないか」
唾を飲んだ。そのことはあまり考えていなかった。川村弁護士も話してくれなかった。胸がきりきりしてきた。思わず目を閉じていた。
「わかるか。君が正直に罪を認めて反省しないでいると、誰より苦しむのは世間の矢面に立つおふくろさんなんだよ。今さら否認に転じても、いや、今さら否認に転じたからこそ、世間の人たちは君のことを自分のことしか考えない、往生際の悪い卑怯な人間だとみなし、憎悪はエスカレートするばかりだ。これは脅しじゃないぞ。あくまで可能性として、警察署のなかにいる君に直接手を出すことはできないが、手の届く場所にいるおふくろさんに何かしてやろうと考えるような輩(やから)が出てきたとしても不思議じゃない。君はおふくろさんのことを考えていると言った。だがそれは噓だ。増山、君はおふくろさんなんかちっとも心配せず、どうにか法律の抜け穴を探して罪を逃れようとしている親不孝者の極道息子だ」
そう語る岩切検事の目は潤んでいた。
血管に無数の虫でも入ったかのように、全身がいてもたってもいられないほどムズムズする感覚に襲われる。母親のことを思うと、焦燥感や申し訳なさや会いたい気持ちなどいろいろな感情がぐるぐると渦巻き、気がつくと口から「うああああああああ」という声が漏れ出していた。
「おいっ、騒ぐな!」隣で手錠腰縄を持っていた警察官が怒鳴った。
手が使えないので淳彦は下を向き、懸命に口を閉ざした。腹の底からあふれてくる声を完全に止めることはできなかった。
もう駄目だ。壊れてしまう。ガチャガチャガチャガチャ……という音がして、自分の全身が震えて手錠が鳴っていることに気づいた。我慢しようとしたが「うああっ」という声が漏れてしまう。
「おいっ!」警察官がまた怒鳴り、腰縄を引いた。
「いいんだ」すかさず岩切検事が手を挙げ、こちらを見た。「苦しいんだよな、増山?」
淳彦は歯を食い縛ったままうなずいた。