◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第74回

「それが君の弁解か?」淳彦の言葉を聞いて検事の表情は暗くなり……。
「それはお前が人間だという証拠だよ。人間らしい感情があるから、犯した罪に対して罪悪感を感じることができる。君にはまだ更生の余地があるということだ──」
耳をふさぎたいが手錠でできない。
「うあああああ──」また声が出た。
「その声。その声こそ君のなかにまだ残っている良心の叫びなんだ! 増山、帰ってこい、人間の世界に。しっかり自分の罪を受け止めて、認めてしまえ。良心の声に従うんだ!」
暴れたかった。逃げ出したい。だが動けなかった。
──駄目だ。
絶望のなかで淳彦は悟る。
どれだけ頑張って黙秘しようが、どれだけ必死に否認しようが、そんなことは一切無意味だ。警察官も検察官も一度逮捕した自分を本気で犯人だと信じ込んでいて、こっちの言い分などこれっぽっちも聞く気はない。
係長が言ったように、逃げ場はない。留置場では取調官とつながった留置官に四六時中監視され、自殺という逃避すら許されない。留置場から出ているあらゆる時間は手錠や腰縄でがんじがらめにされ、警察官に見張られる。
終わったのだ。死体遺棄を認めてしまったあの瞬間、自分の人間としての自由は完全に奪われてしまった。拘束されているのは体だけじゃない。取調べの場で本当のことを話す心の自由もだ。
どうすればいい? どうすればこの生き地獄から抜け出せる? 考えようとしてみたが、頭のなかには靄(もや)がかかったようで何も浮かんでこなかった。脳の回線が焼き切れてしまったようだ。口から落ちたよだれが手にかかった。
「大丈夫だ、増山」岩切検事が声をかけている。「俺が君を助けてやる。どうだ、この岩切のこと、信じてくれるのか?」
もうろうとした意識のなかで、それでもわらにでもすがるように、淳彦はうなずいていた。
「じゃあ認めるんだ、自分のため、おふくろさんのために──自分が犯した罪を。綿貫絵里香さんの殺人についても認める。それでいいな?」
もう抵抗する気力などどこにもなかった。やけくそですらない。淳彦はごく自然にうなずいていた。
「……いいぞ」岩切検事は励ますようにうなずいて、「ちゃんと自分の言葉で言ってみろ。『綿貫絵里香さんを殺したのは、私、増山淳彦です』って」
「わ……綿貫絵里香さん、を……殺したのは……私、増山淳彦です……」その言葉が淳彦にはどこか遠くから聞こえるような気がした。
「──よし!」岩切検事は事務官の方を見て「すぐに調書を作れ!」と命じると、淳彦に目を戻した。「それでいい。よく言ったぞ、増山。大丈夫だ、君にはまだちゃんと人間の心が残っていた。〝善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。〟わかるか増山、今君は、仏への道に向かって大いなる一歩を踏み出したんだ──!」
その言葉を聞いて、淳彦の体が勝手に反応した。笑い声とも泣き声ともつかぬものが喉から絞り出され、同時に、涙がぼろぼろとびっくりするほどの量、次から次へとあふれて、ぼたぼたぼたっと落ちた。どうしてそんなことになったのか、淳彦にはさっぱり見当がつかない。このとき淳彦の心の中にあったのは、ただ一つの思いだけだった。事実に反することを自分がやったと認めたとき、こう感じていたのだ──これでやっと楽になれる。