◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第78回

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第五章──狼煙 03
請求から五日後の東京地裁。増山の意見陳述のほかにもある懸念があった。

 

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 三月二十六日、月曜日。

 スーツ姿の都築が運転してきたドイツ製のSUVに自宅近くで拾われ、志鶴はそのまま足立区綾瀬にある増山家へ向かった。車をすぐ近くに停め、志鶴だけが降りて増山文子を迎えに行き、再び車に乗り込んだ。二人を撮影していた取材陣が車の外からもレンズを向けてきた。車を出すのに都築はクラクションを鳴らさなければならなかった。

 増山の勾留理由開示期日については昨日から報道されていた。今日十二時四十五分から開かれる期日について、東京地裁のウェブサイトにはすでに昨日の段階で、傍聴券交付情報が発表されていた。

「大丈夫ですか、お母さん?」運転しながら、都築が後部席の文子に声をかけた。

「……昨日はあまりよく眠れなくて」文子はコートを着て帽子をかぶり、眼鏡の他にマスクも着けている。マスコミ対策だ。肩にかけたショルダーバッグのハーネスをぎゅっと握り締めている。

「風邪はひいてますか?」都築が訊ねた。

「……いえ」

「声は出ますね?」

「はい」

「だったら大丈夫だ」

 東京地裁のある霞が関に着いたのは、十時半過ぎ。予定どおりだ。都築は車を、東京地裁の隣に建つ弁護士会館ビルの地下にある駐車場に停めた。車を降りた三人は、地下一階にいくつかある飲食店の中で空(す)いている店に入り、早めの昼食を摂った。マスコミもここまでは入ってこなかった。何人かの弁護士が都築に会釈したり声をかけたりしてきた。

 帽子とマスクを外した文子を見て志鶴ははっとした。いつもより明らかに化粧が濃い。白いファンデーションは首の辺りで地の皮膚との境界線がくっきり際立ち、ルージュの赤は年齢不相応に明るすぎる。よく見れば眼鏡の下にはアイシャドウのラメが光っていた。

 食事の間も、裾の長いコートは首元までぴっちりボタンをかけたままだった。コートの裾から、真新しい白いブーツが覗(のぞ)いている。志鶴は暑くないかと声をかけたが、彼女は大丈夫と答えた。志鶴の目には彼女はどこか上の空のように見えた。

 食事のあと、志鶴は二人と別れて弁護士会館を出、東京地裁へ向かった。都築と文子は、弁護士が依頼者などと使うことのできる面談室がある四階へ上がった。二人は面談室で時間まで最後の打ち合わせをすることになっていた。

 東京地裁前の歩道にはすでに取材陣が陣取っていた。志鶴に気づいてカメラを向ける者もいた。志鶴はさっさと通り抜けて建物に入り、警備員に身分証を見せ、法曹関係者専用のゲートを抜けた。手続を済ませ、地下の接見室へ向かう。しばらくすると、アクリル板の向こうに増山が現れた。目がうつろだった。

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

◇自著を語る◇ 角幡唯介『エベレストには登らない』
本の妖精 夫久山徳三郎 Book.67