◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第81回

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第五章──狼煙 06
「被疑者は前に出てください」裁判官に促された増山に志鶴は意見書を手渡す。

 警察官が増山の手錠腰縄を解いた。増山は困惑するようにそれを見ていたが、警察官に促されるように、よろよろと立ち上がった。裁判官と志鶴を見比べ、自分でもなぜそうするのかわからないという顔で証言台に向かって進むと、立ち止まった。

 志鶴は増山のために作成した意見書を手に取った。

「──増山さんは、意見書を朗読する形で意見陳述します」

 志鶴は席を離れ、増山に歩み寄った。増山が怯(おび)えた目をこちらに向ける。近づかないでくれ、と懇願しているようにも見えた。志鶴は増山の横に立って、書面を差し出した。増山はそれに目を落とし、顔を上げて志鶴を見た。それから──弁護人席にいる文子に目を向けた。文子は増山に微笑(ほほえ)みかけた。さっきまで気を張っていた反動か、積もり積もった心労が皮膚のたるみやしわとなって表情に影を落とし、彼女をふだん以上に老け込ませて見せていた。増山の口から「……母ちゃん」という言葉がかすかに聞こえた。

 増山はまたゆっくり志鶴に視線を戻し、書面に目を向けた。右手でそれを取り、両手で持った。志鶴は彼から離れ、弁護人席の横に立った。増山が書面を見て口を開いた。初めのうち、声を出すのが困難なように、口をぱくぱくさせたが、やがて読みはじめた。

「わ、私は……令和 × 年三月十三日、足立南署で任意の事情聴取を受けたとき、と、取調べを行った警察官から、み──耳元で大声を出されたり、机を手で叩(たた)かれたりしました。も──『もう金輪際逃がさねえからな』『お前がやったのはわかってんだよ』『お前はもう終わりなんだよ』などと脅されました。『お前がやったんだろう』と何度も何度も怒鳴られ続け、私は……」

 増山は、言葉を詰まらせた。

「……私は、恐ろしくてたまりませんでした。つらくてたまりませんでした。もう、怒鳴られたくない、責められたくない、そのことしか考えられなくなりました。それで……本当はやっていないのに、やりましたと認めてしまいました」

 ぐすっ、と音がした。文子が鼻をすすったのだ。

「逮捕されたあと、それまでの部屋から、カメラがある取調室へと移動させられました」増山が続ける。「それからは、取調べの間に怒鳴られたりすることは、なくなりました。で、でも──あ、朝、留置場から取調室へ連れて行かれる前に、亡くなった綿貫絵里香さんの遺影に無理やり合掌をさせられたり、握手だと言って、私が痛くて涙を流すまで手を強く握られたりしました」

 増山の声が震えていた。文子が、ああ、というような声を出した。

「三月十六日、東京地裁の裁判官から、足立南署に勾留されるという処分を受けました。りゅ、留置場では、留置官から、夜中に、いびきがうるさいからと、居室内で正座させられたり、『豚みたいにブヒブヒ鳴く』などの暴言を浴びせられました。『噓をつかず取調べに協力して、きっちり罰を受けろ』とも言われました」

 傍聴席で誰かが噴き出した。増山の後ろに座っている二人の警察官が、ものすごい顔になって増山をにらみつけていた。増山に付き添ってきたのは、増山を留置している足立南署の留置官だったのだ。増山は額や首筋にびっしょり汗をかいていた。涙と汗の入り混じったものが手にしている書面に落ちた。

「わ、私は──無実です。自白は、と、と、取調官に無理強いされたものです。疑いをかけられているようなことは、やっていません。私は不当に勾留されています。勾留を決めた裁判官にはそのことをわかってほしいです。私を一日でも早く解放してもらいたいと思います」

 増山は書面から顔を上げた。肩で息をしていた。

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里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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