◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第86回

増山が嘆くのも当然の起訴内容。それでも都築は接見室でにっこり笑った。
東京拘置所へ移送されてからも、増山は黙秘を堅持し続けていた。志鶴の再三の働きかけにもかかわらず、文子への接見禁止はまだ解かれていない。志鶴には裁判官のいやがらせとしか思えなかった。それでも、彼女の手紙を志鶴が接見室で読み上げ、文子の言葉を増山に伝え続けた結果、増山は二度と取調官に屈することなく自らの権利を守り抜いたのだ。
検察官の岩切は、綿貫絵里香の事件については、増山が強要された虚偽自白の供述を元に公訴事実を書いた。が、浅見萌愛については、増山が言及さえしていない犯罪について、おそらくは捜査機関が握っている証拠を元にゼロから作文している。いかにも権威ぶった書面に、さも事実であるかのように、増山が犯したとする二件の犯行が簡潔とはいえ具体的に記されているのだ。もちろんここに書かれているのは裁判によって確定した事実ではないが、志鶴たちの助言で心積もりしていたとはいえ、増山がショックを受けるのも当然だろう。
起訴状一本主義──予断排除の原則により、起訴状には裁判官に事件に対する予断を抱かせるおそれのある犯罪の動機や原因は記されないし、書類その他を添付することもできない。しかし、このお役所らしいそっけない書面が、一人の人間の命運を左右し、最悪の場合にはその生命さえ奪うという、国家権力が個人に振るう最大の暴力の引き金なのだ。
「増山さん、まずはお疲れさまでした」都築は、豊かな半白髪の口髭(くちひげ)と顎鬚(あごひげ)をたくわえた顔で、にっこり笑った。「検察は二件の死体遺棄と殺人で増山さんを起訴した。もうこれ以上の再逮捕や、取調べはないでしょう。本当によく頑張られました」
「い、いや……」増山は、視線を上げ、都築と志鶴を見てから視線をそらした。「先生たちの……おかげっていうか」
アクリル板ごしに不満やフラストレーションをぶつけられることは何度もあったが、増山が、志鶴に対して感謝の言葉を述べることはこれまでほとんどなかった。ベテランで、懐が深い都築の人間力が引き出したものだろう。それでも、起訴当日にこんな言葉を聞くことができるとは──志鶴は胸に小さな炎が灯(とも)るのを感じた。
「増山さんは、一番大変なところを見事乗り切った。あとはわれわれ弁護人が、増山さんのために闘う番です」
「ほ、保釈は……?」
「すぐに手を打ちます」志鶴が答えた。
「ただ、保釈を勝ち取るのは、難しいと思ってください」都築が補足する。
増山が顎を落とした。
「われわれも、増山さんのため、できる限りのことをするお約束はします。増山さんには、裁判が始まるまで、どーんと構えていてもらいたい」
「裁判始まるまで、どれくらい……?」
「そうですね。これだけ大型の否認事件となると、一年はかかるでしょう。場合によってはそれ以上」
増山があんぐり口を開けた。「そんなに……」
志鶴はもちろん、都築でさえ増山にかける言葉が見つからないようだった。人質司法──日本の刑事司法の根底にある問題が解決できない現状に、志鶴たち刑事弁護士も歯嚙みする思いでいるのだ。
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