◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第89回

おそるべき敵対手の出現──。テレビで増山を犯人扱いしたあの弁護士だ。
アドレナリンが出た。
天宮ロラン翔子(しょうこ)。志鶴の依頼人である男性に、精神的DVを理由に離婚訴訟を起こした妻の代理人だ。志鶴の依頼人はDVを否定し、志鶴自身も、相手方が天宮の入れ知恵で虚偽の訴えをしたに違いないとにらんでいた。
血が沸き立つ理由はそれだけではない。天宮は出演したワイドショーで増山を犯人扱いし、「児童ポルノ」を好む性虐待者であるかのように断罪したのだ。増山の弁護人としてはもちろん、弁護士の一人としても到底許しがたい。
志鶴は深呼吸をして頭を切り替えた。「出ます」
「二番」
受話器を取った志鶴は、保留ボタンを解除した。「川村です」
『どうも、天宮です』フランス人を夫に持つためか、彼女の日本語にはどこか鼻にかかったような響きがあった。『DV訴訟では、骨折り損させてごめんなさいね』
「まず前段、DV訴訟じゃなく、虚偽DVを主張する不当な訴訟ですね」志鶴はすかさず異議を唱えた。「それと後段、その台詞(せりふ)、そっくりお返しします」
『フランスのことわざに、こういうのがある──「世界を作るには、すべてが必要」。多様性って大事ですものね。あなたのような弁護士が存在していることにも地球レベルで見れば、きっと意味がある』
自分の眉間に皺(しわ)が寄るのがわかった。「この電話にも意味はあるんですよね? どんなレベルか知りませんが」
『そんな大仰な話じゃないんだな』理不尽にも彼女は鼻で笑った。『ご挨拶をしようと思っただけです』
「挨拶……?」
『私、このたび、綿貫麻里(わたぬきまり)さんの被害者弁護士として選任されました。増山淳彦に殺された、綿貫絵里香さんのお母さんです』
呼吸が止まる。
天宮の個人事務所のウェブサイトには、目立つ場所にこうコピーがある──〝私は、何より、被害者に寄り添いたい、という思いを大切に弁護士業を行っています。そのポリシーに則(のっと)り、刑事事件の被疑者・被告の弁護はお引き受けいたしません〟
被害者参加の弁護士は、その限りではない。
志鶴は、自分にとって最大のトラウマとなっている案件を思い出さずにはいられなかった。志鶴の依頼人である星野沙羅(ほしのさら)が自分を殺そうとした不倫相手の男性から身を守ろうとして、結果的に相手が亡くなり、正当防衛を主張した裁判だ。最終弁論で志鶴は、検察側の主張をたしかに切り崩したという手応えを得た。が、〝被害者男性〟の遺族である妻の法廷での陳述、さらには、傍聴席にいた〝被害者男性〟の母親による不規則発言で裁判員の心証がひっくり返り、星野が有罪となった案件だ。
- 1
- 2