◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第9回

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第9回
第一章──自白 04
「容疑者」逮捕を伝えるニュース速報、そのとき志鶴にまさかの連絡が──!


 部屋を出、受付を通り過ぎ、弁護士たちのデスクが並ぶスペースへ向かいながら、スマホで警視庁足立南警察署の番号を呼び出し、身分を名乗って留置管理課につないでもらう。逮捕した警察署と勾留場所が異なっている場合もあるからだ。

 電話に出た留置場管理官は女性だった。増山淳彦の身柄について問うと、『いいえ、まだこちらには留置されていません』という返事が返ってきた。

「現在取調べ中ということですね?」志鶴は訊ねる。

『はい』

「取調べが終わったら、留置先はそちらになりますよね?」

『たぶんそうなると思います』

 足立南署で取調べ中。それがわかれば充分だ。礼を言って電話を切る。顔を上げると、田口司(たぐちつかさ)が自分のデスクに向かっていた。新人である志鶴の指導係だ。

 五十代前半。痩せて長身で、いつもグレーのスーツを着ている印象がある。髪の毛をきっちり七三に分け、銀縁の眼鏡をかけている。書類か何かに目を落としているようだ。

「田口さん。当番弁護の接見に行ってきます」

 声をかけると顔を上げてこちらを向いた。が、眼鏡の奥で視線が焦点を結んだかどうかは定かでない。

「そう」小さくうなずくと、すぐに視線を戻した。

 そっけないとも言える態度。志鶴は慣れっこになっていた。

 初対面の頃から、田口の距離感は変わらない。こちらから質問しなければ何も教えてくれない。志鶴の指導係という自覚がどこまであるのか疑問だった。嫌われているのだろうかと思ったが、ほどなく、田口のそうした振る舞いが特別なものではないことに気づくようになった。

 志鶴が所属する公設事務所の報酬は給与制だが、弁護士は一人一人が独立国のようなものなのだ。公設事務所には、一般企業や、ビジネスローヤーの世界とも異なり、出世という概念が存在しないので、人事考課に気をもむこともない。同僚との軋轢(あつれき)さえ気にしなければ、協調性やコミュニケーション能力といったものは引き出しに入れておいても職を失うことはない。

 志鶴に限らず、田口は、人との関わりをできるだけ避けているように見えた。逸美によれば、彼の担当のパラリーガルにも最小限の仕事しか任せていないらしい。彼女いわく五十を過ぎても独身とのことだが、うなずける。

 三浦俊也の指導係は、事務所の副所長だ。田口と変わらぬ年配の男性だが、大きな刑事事件をいくつも手がけてきた、弁護士として尊敬できる人物で、三浦も学ぶところがたくさんあると言っている。一方志鶴は、司法修習生時代に実務修習(エクスターン)として二週間修習した弁護士事務所や、弁護士会のセミナー、あるいはパラリーガルである逸美に教わったことの方が、田口から学んだことよりはるかに多かった。

 もっとも、入所してほどなくすると、志鶴自身、彼から積極的に何かを学ぼうとする意欲をなくしていた。弁護士としての田口の姿勢を疑問に思う出来事があったからだ。

 以来、志鶴もできる限り距離を置くようにしている。

 パーティションで仕切られた自分のデスクに着くと、女性用だが大容量のビジネスバッグに手早く荷物をまとめた。初回接見は一刻を争う。刑事弁護士として自らに叩(たた)き込んだ原則に忠実に、志鶴はほとんど反射的に動いていた。コートを着、ずっしり重いバッグを肩にかけると、パーティション越しにこちらを見ている三浦と目が合った。

「──志鶴ちゃん」 

 会議室を出てきた逸美がこちらに向かって歩きながら声をかけてきた。

「秋葉原から日比谷線一本で西新井、徒歩五分! ドアツードアで三十分。タクシーより確実だと思う」

「了解。逸美さん、ありがとう。ニュース番組の録画予約もお願いします」

「合点!」逸美が親指を立ててみせた。

 志鶴は出入り口へと向かう。

「被疑者ノート、ある?」受付の前で落ち合う形になった逸美が確認する。

「あります」バッグを叩く。「会議室の片づけ、すみません」

「ノープロブレム。頑張ってね」

「はい。行ってきます──!」

 志鶴はオフィスを飛び出した。

(つづく)

連載第10回


里見 蘭(さとみ・らん)

1969年東京都生まれ。早稲田大学卒業。2004年、『獣のごとくひそやかに』で小説家デビュー。08年『彼女の知らない彼女』で日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞。主な著書は、『さよなら、ベイビー』『ミリオンセラーガール』『ギャラリスト』『大神兄弟探偵社』『古書カフェすみれ屋と本のソムリエ』『天才詐欺師・夏目恭輔の善行日和』など。

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