第11回「上流階級 富久丸百貨店外商部 其の三」高殿 円
弁護士事務所訪問から帰ると、
同僚であり同居人の桝家がくつろいでいた。
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「すごいところまで行きましたね」
事情を聞いて助太刀を頼んだ桝家は、やや呆(あき)れたような声で顔からシートパックを剥がした。
「この後に及んで引けないですね、それ」
「引けないし、たぶん自分でも引きたくない。なんとかしてあげたいと思ってる」
「ちゃんと怒らないと、いつまでも〝これでいいんだ〟ってなりますからね。NIMAさんみたいに、ある程度経済力のある人がぶん殴ったほうがいいですよ。そういう会社って、たいていほかの下請けフリーランスを搾取してますもん」
スタイリストやヘアメイクに友人が多い桝家は、ショーや撮影の現場がいかにパワハラで成り立っているかを話してくれた。
「どこも業界狭いですから、『騒ぐとめんどくさい人だと思われますよ』ってパワハラワードで人を黙らせるんです。で、だれもかれも黙る。結果、魔法の言葉だけが横行して、労働力が都合良くむしり取られ続けるってわけです。とくに女の人だと報酬計算が七割掛けになってますからね。黙らせやすいんですよ」
「その理屈はすごくよくわかるよ。そういうロジックを使うおっさんは、過去にそれで成功体験があって繰り返してるから」
日本人が都合良く使う魔法のパワハラワード筆頭が、『みんなに迷惑がかかる』だ。「みんな」がだれかわからないし、「迷惑」も具体的に誰にどのような不利益が生じるのか、なにひとつ明確でないのに、この言葉で黙らせられる人がどんなに多いか、だれもが経験したことがあるモヤモヤNo.1なのではないかと思う。
「だれもが、そのモヤモヤをはっきりさせたいと願っているし、本当なら弁護士も雇いたいけど、費用のことを考えるとなかなか実行できない。実際、モヤモヤはただの〝お気持ち〟であることも多いですしね」
「弁護士も、医者といっしょでセカンドオピニオンが大事なんだなってすごくよくわかった。専門分野が分かれてて、ただ弁護士を雇っただけではどうにもならないんだなって」
「実際、良い機会なんじゃないですか。僕ら、商品以外のものを売ってる」
「うん。核家族化が進んで、フリーランス富裕層が増えて、独身でも社会的にどうこう言われにくい世の中になってきた。でも、独身でも既婚でもトラブルは平等に降りかかってくる。弁護士の選び方や仕事を観察させてもらう」
まじめなんだから、と桝家が呆れてワインセラーにワインをとりに行った。最近、週末の夜に出かけない。いまは恋人がいないだけかもしれないが、それ以上に、母親との確執が解消されて以来、彼は少し変わったように思う。のびのびとしているのだ。
何十年もかけて背負ってきた重荷を下ろしたのだとしたら、つきものが落ちたようにリラックスしているのは喜ばしいことだ。
(いまの桝家の状態が、彼にとってほんとうに楽なんだとしたら、会ったばかりのころのどこか片意地張ったような態度も、恋愛対象がいないなんて人生詰んでる的な考え方も、老後寂しいから結婚したいという希望も、葉鳥さんへの思慕も、彼のストレスを解消するために必要なオプションだったのかもしれない。ストレスの根本がなくなったから、彼にとってとくに気を張ることも、恋人も、結婚願望も必要ではなくなったのかも)
少し前までは、冗談めかして『結婚しませんか』とよく言われていたのに、最近はまったく言われていない。ふわっと仕事をして、さっさと家に戻って、なにをするでもなくのんびりしている様子は、ソファーの上で伸びている猫を思わせる。
前は側を通っただけで毛を逆立てる子猫のようだった桝家が、変わるものだ。だとしたら心的ストレスは見えていないだけで、どれだけ人間に悪影響を及ぼし、生き方まで変えてしまうのだろう。空恐ろしい。
母にメールをした。明日こそは帰れると思うという文章は、何度も再考したすえに送らなかった。またなにか突発的なことが起こる可能性があったからだ。鞘師さんからは、『脂肪溶解注射とマイクロニードルについて、いい病院を教えてほしい』と仕事用のタブレットにLINEメッセージが入っている。これも、勉強不足ですぐに返事ができない。美容整形の場合、自費で高額であるし、大学病院のようなある意味権威を担保にもできない。医師選びは弁護士選び同様に難しい。
ああ、自分のためにクリスマスコフレのひとつも予約すればよかったな、と思いながらまたもやソファで寝落ちしていた。この家が全館空調でなければ、完全に風邪をひいていたに違いない。
芦屋から実家のある新長田まではJR神戸線で二十五分ほどで着く。朝ぼやぼやしているとまたお客さんに用事をたのまれそうなので、朝のルーティーンもそこそこに電車に飛び乗った。
母が大好きな芦屋軒の牛肉の佃煮が紙袋にぎっしり入っている。阪急芦屋川駅のサンモール商店街にある但馬牛(たじまぎゅう)の老舗で、いつも近所のおばあちゃんたちが椅子に座ってのんびりおしゃべりしているのが印象的な店だ。
ここの佃煮さえあれば三日は幸せだという母のために10袋買っていく。母はそこからご近所さんに配って歩く。そういうコミニケーション手段が、老いていく人々にとっては大事なのだと静緒も理解している。
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神戸市生まれ。2000年に『マグダミリア三つの星』で第4回角川学園小説大賞奨励賞を受賞しデビュー。『トッカン―特別国税徴収官』『上流階級』はドラマ化され話題に。ほか『政略結婚』など著書多数。