第7回「上流階級 富久丸百貨店外商部 其の三」高殿 円
「キャリアアップしないの?」
とよく聞かれるようになった。
「私ね、鮫島さん。昔から頭の出来がそんなによかったわけじゃないの。顔もごく平凡だったし。幸運だったのは、学生の頃、あのころまだ日本がバブルの残り香があって、就職してすぐ会社のお金で海外に出してもらえたこと。英語を覚えて、NYで家をバンバン売った。ビルも別荘もセカンドハウスもね。ブローカーの資格をとって富裕層コネクションを広げて、あるときここよりもっとのびのびやれて、稼げる世界を知ったの。それがマッチングサービスよ」
百合子の初期キャリアが不動産関係であったことを、静緒は初めて知った。とはいえ、スケールが大きすぎて黙って聞くことしかできなかったが。
「家を売ってると、ううん、家だけじゃなくて、あの時代はどんな業界でも女が出世すると男からの嫌がらせを受けるの。いまでいうセクハラなんて日常茶飯事。でもあるとき、家を売るために自分の体重をグラム単位で調整していることに、急に飽きてしまったのよね。アジア人差別もすごかった。今でもすごいけれど、いまの比じゃなかった。お客と家の話をしていたら、突然こう言われるのよ。『あなたはバナナかと思っていたけれど、いいとこクリームティね』って。なんのことかわからずに微笑んでごまかして、客が帰ったあと、同僚が激しく怒っていてようやく気づいたわ。肌の色について言われたことを。今だったらこう言う。興味深いたとえですねって。でも当時は、怒るべきときに怒ることすらできなかったの。不勉強のせい」
「不勉強、ですか」
「そうよ。だから考えた。自分が女でアジア人であることを生かせる、男からのセクハラとパワハラを受けにくい業界で成功するにはどうしたらいいか。それはね、マイスターになることだった」
結婚やパートナーシップを専門に扱うプロフェッショナルになれば、仕事で出会う異性はすべて客。しかもクライアントは似た国籍、ルーツを持つ相手を望むことが多い。マイノリティであることを生かすことが可能になる。さらに、家を買う人間がほぼ男性だったことと比べれば、婚活業界のクライアントは女性の比率が高い。
「仕事を仕事としかとらえなければ、自分を消費するのみ。でも仕事をうまく使えば、人生も上積みできる。鮫島さんは何度も業界を変えてるでしょう。だから、今の仕事はコネクション作りで、そろそろ次の畑を探しているのかなと思っていた。違う?」
なるほど、と妙に感心してしまった。百合子のようなスーパーバリキャリ人間にとっては、いまの静緒はキャリア形成の一環として外商部にいるように見えるらしい。
「それが、私、顔に出ないのですが、いつもいっぱいいっぱいなんです」
「いっぱいいっぱいなのはわかったけど、でもすぐ抱えた問題は解決するでしょう。いっぱいいっぱいなのは、その都度いっぱいいっぱい抱えるせいよね」
「そう……、なんでしょうか」
「まあ、回りくどいことを言う気はないの。だけど、いまのうちにもっと給料いいところに動いて、楽をすべきね」
「楽、ですか」
「欲しいものをがまんしないですむのは楽でしょう?」
百合子と話していると、時々桝家と話しているような気になるのは、相手がアクティブでファッショナブルなタイプだからだけではないらしい。キャリアを積めばそれ相応の対価を求めて動くことにためらいがないのだ。
「特にそういうことに興味がなかったら、よけいなこと言ったわね。忘れてね」
「いえ……」
こういうとき深追いせずにさっと会話を切り上げてくれるのも、桝家に似ている。
「今日はどうもごくろうさま。うちの頼まれもの、一日の最後にするの楽でしょ。また今度、おいしいお店にでも行きましょ。プライベートで」
静緒は頷いた。百合子の言うとおり、このまま直帰できるのは正直ありがたい。金曜日とはいえ、最近土日は佐村さんにつきあって学校の説明会、プレテストと外出することが多く、休みのないまま次の週になることもある。佐村さんからは相変わらず矢のようにメールが入っているし、十中八九お子さんの滑り止めの件だろう(模試という名の、これを受けていると入試の点数にプラスするという優先入試が存在する)。これが受験が終わる一月末まで続くと思うと、体力的にキツイ。
(最近、週末がないから、実家にもぜんぜん帰れてないなあ)
母にメールをしても、いつも元気だよ、とか、ベランダのトマトがとれすぎた、とか、平和な返事しか戻ってこない。あっちはあっちで元気にやっているようだ。
芦屋に住むための家を探していることと、同居の話をまだ母にしていないことが気にかかっていた。このままだと家に戻るのが正月になりそうなのだ。
(あ、でも今日は久し振りにまともな時間に戻れたから、できれば風呂で資料を読んで、それからお母さんの声を聞いてから寝たい)
家に戻っても、仕事とは完全に切り離されない。鞘師さんはヒアルロン酸で目の下に涙袋を作り、さらに顎を形成してフェイスラインをすっきり見せる方法を検討しているようだ。運動が嫌いなのでなかなか痩せられないが、思い切って断食道場に行くか、ラジオ波マシンを使って脂肪を溶かすか、注射で溶かすか迷っていると相談された。まったく専門外だし、知識も無いので返答に困る。
「お、珠理(しゅり)さんからメールがきてる。息子ちゃん、おっきくなったなあ」
静緒のもと顧客であり、関西一の暴力団若頭の愛人であった珠理は、いろいろあって内縁の夫と縁切りし関東の実家に戻っている。帰京してから産んだ息子さんの父親はもちろんその男だが、あれからいっさい連絡もとっていないらしい。必要であれば裁判所に接近禁止命令を申し立てるつもりだ、と強い口調で語った彼女は、以前、子供に満足な暮らしを与えてやれないのではないかと弱々しく泣いたときと同一人物には見えなかった。
【既刊好評発売中!】
神戸市生まれ。2000年に『マグダミリア三つの星』で第4回角川学園小説大賞奨励賞を受賞しデビュー。『トッカン―特別国税徴収官』『上流階級』はドラマ化され話題に。ほか『政略結婚』など著書多数。