第7回「上流階級 富久丸百貨店外商部 其の三」高殿 円

上流階級3

外商部に来てからもうすぐ三年。
「キャリアアップしないの?」
とよく聞かれるようになった。

『久し振りに実家に戻ってみたら、出戻りは私だけじゃなくてむしろ気楽だったよ』

 奥多摩のなにもないところだけれど、敷地だけはあるので、使っていなかった祖父母の家を徐々に修理して、民泊でも始めようかと言っている。

 月日は流れていくんだなとしみじみ思った。

 では、自分も変わるべきだろうか。季節のように、なにもかもリフレッシュして時を刻み、新陳代謝を繰り返して、前へ。

(前、ってどっちだっけ)

 上と、前は、どう違うんだろう。

 夜、社用車を会社の駐車場に置いて、山の手の坂を上がっていると、急に方向感覚が狂うことがある。

 昔は、学校と家を往復するだけ。前を向くというのは、明日へ向かうことだった。明日は今日より確実に『おとな』に近付いていて、静緒は親のように、歳上の友人のように明日を迎えればいいだけだった。

 いま、二十年近く社会で働いてきて、学生の時とはまったく違う、方向感覚の酔いを感じている。あのころは、前に進めるかどうかだけが心配だった。いまは――

(いまは、立ち止まることができる。できるから、選択肢が増えて迷うんだ)

 進む方角は前だけではなくなった。いや、ほんの少し前まで静緒は学生の時と同じように、前だけ向いて突き進んできた。学歴がないので結果を残さなければならない。製菓の才能は無いので優秀な営業にならねばならない。片田舎のちいさなパン屋から、大企業である百貨店の契約社員へ。そして正社員、外商部へ。目標は明確で、迷っているヒマすらなかった。

 いま、外商部で三年目を過ごし、結果と言ってもいい成果を少しずつ残している。静緒でないとと言ってくださるありがたいお客様も増えてきた。お客様は口コミがすべてだ。一人に尽くせば、必ずどのようなかたちであれ紹介がある。

 ノルマである三千万円を越える月も多くなってきた。個人といい関係を結べれば、法人にもつながる。法人からの見返りは莫大だ。法人専門の外商部員がつくとはいえ、静緒の紹介であれば静緒の成績にもなる。

 問題は、ここから先だ。

 富久丸百貨店を抱えるF・Eホールディングス内で出世するためには、桜目かなみのように、政府の掲げる「女性活躍」のお題目に乗っかっていく必要があるだろう。むしろ、「女性客がほとんどの百貨店企業の重役がいまだにオッサンばっかりなんて、日本を代表する会社として恥ずかしくないんですか」と声も高らかにグイグイ出て行かなくてはならない。そうしなければ、出る杭は打たれる。手柄は横取りされる。それがいやなら、むやみに打たれないように「政府はこう言ってますけど」と建前で防御し、横やりをかわしながら、上にあがるしかないのだ。それが、静緒のこれからの「前」なのだった。

 それがいやなら、道はふたつある。このまま平社員としてなにもせず、給料もあがらないままクビにおびえて暮らすか。あるいは転職するか。

 自分がなにもできないとは思わない。なにもできない人に、百合子も桝家もキャリアアップしないのとは言わないだろう。静緒にはできることもあるし、まだ伸びしろもある。なによりの強みは、営業が好きなことだ。ものを売るという仕事がなによりも好きなのだ。日本は有数の職人やアーティストを抱えながら、宣伝・企画・販売ができる人間が少ないと言われている。営業といえば電話かけ、飛び込み、コネばかりを推奨して、人的資源を育てず切り捨ててきた。そのツケはもう色濃く現れている。ものを売れる人間がいないのだ。

 静緒は営業が好きだ。宣伝も企画も大好きだ。仕事をふられれば、いったいどうすればモノが売れるかずっと考えている。飛び回るのも好きだし、学ぶことも好きだ。二十年も働いていれば、自分のような人間はあまり多くないこともわかる。

 と同時に、このままでは自分の〝好き〟がだれかに搾取されるだけだということもわかっている。結果を出せば、一時的に査定が上がりちょっとプラスになったボーナスを受け取っておしまい、というのは、いまの日本のボーナスシステムだと搾取と変わりない。

 いずれ、人間は老いる。動きたくても動けなくなる時がやってくる。季節のようにまた一年経てばリフレッシュというわけにはいかない。昔のように動き回れず、昔のように徹夜もできずアイデアも浮かばない、それでも静緒はこれから老いていく体と心とともに生き続けなくてはならない。

 静緒とて物知らずではないから、自分がキャリアアップするときの待遇についてまったく考えていないわけではなかった。桝家は冗談めかして一本と言ったが、実際ECのベンチャーやベンチャーへの出資会社へそれなりの誘いで転職すれば、まったく夢物語ではないだろう。

 もちろん今の会社に止(とど)まるという選択肢もある。紅蔵への恩もある。百貨店という宝石箱への愛着もある。お客さんたちも好きだ。最近ではあれだけ苦手だった鶴さんのお宅へ伺うのがむしろ楽しみでもある。

 けれど、ものを売れる人間ならば、まず自分を売れるはずだという思いもたしかにあるのだった。

(いままでは、目の前にあるタスクでいっぱいいっぱいだった。急に目の前に積み上がっていたものが消えたから、いろんなものが視野に入ってきただけ。じっくり考えればいい。すぐでなくとも)

 一人で生きていくために必要な武器を揃えなくてはならない。動くのはそれから。

(まずは家だ。正社員のうちにローンを組まないと、三十五年ローンが組めなくなる)

 その日も、夕食をとったらそのあとすぐに母の眞子に電話しようと思って、気がついたらソファで寝落ちしていた。金宮寺から預かった資料の中に、これはと思う物件があったのだ。

 家を買い、転職するならこれからだ。大きく動くにしても小さく動くにしても根回しは必要である。

「明日は、赤根さんのお宅にヴィトンのバッグを持っていって、それから家に……、あ、なんかメールが入ってる……、だめだ、むり……」

 また寝落ちした。

(つづく)

「上流階級 富久丸百貨店外商部 其の三」連載アーカイヴ


【既刊好評発売中!】

『上流階級 富久丸百貨店外商部』

 

 

『上流階級 富久丸百貨店外商部 2』

 
高殿 円(たかどの・まどか)
神戸市生まれ。2000年に『マグダミリア三つの星』で第4回角川学園小説大賞奨励賞を受賞しデビュー。『トッカン―特別国税徴収官』『上流階級』はドラマ化され話題に。ほか『政略結婚』など著書多数。
第6回「上流階級 富久丸百貨店外商部 其の三」高殿 円
第8回「上流階級 富久丸百貨店外商部 其の三」高殿 円