【連載第16回】公儀厠番 -うんこ侍後始末- 房州、鑓の品地武之進久尚 嘉門院彷楠・作

晦日の宵。武之進は「晦日狸」の正体を見極めて、討ち取ろうと画策する。最初から押っ取り刀で待ち伏せしようとするのだが……? 権左までも同道させたが、まさかの展開が待ち受けていた!

第五章

次々に起こる不思議な出来事。魑魅魍魎のたぐいのことならば任せておけと心得ている武之進であったが……?

 日は移ろいやすく、何事もないはずの江戸暮らしが、淡々と過ぎていくのであったが、どうもこのごろ、武之進の身辺が妙に騒がしい。
 なにか星の巡りであろうかと武之進はいぶかっている。
 お屋敷内、中庭の井戸端に据えられている狸の十貫目もある焼き物が、月明かりがない毎月、晦日の丑三つ時に動くというので、武之進が捜査を依頼された。
 それも武之進が不思議に思うことの一つであった。
 なに、狸が動こうがどうしようが、いっかな預かり知らぬことである。そんな狐狸妖怪のたぐいにまつわるについてもの語りする者はいくらでもいる。
 魑魅魍魎のたぐいのことならば、任せておけと日頃、口にはださぬが、そう心得ている武之進であった。
 問題は、それに日をおかずして屋敷裏の惨殺死体など奇妙なことが続くというのを不思議、と思っているのだった。
 惨殺死体はともかくとして、とかく世間というものは、わからないことがあれば、何につけ妖怪変化の仕業ということになるのであった。
 それゆえ、武之進は依頼されたお役目に僧籍にある権左を伴おうと思いついたのだった。
 権左は破戒僧のごときものではあったが、それなりに修行も積んで得度したのであろうから、多少の法力は持っているだろうというのが武之進の思惑だった。
 いくら妖怪変化の姿を見てしまう、あるいは見えてしまうという武之進ではあるが、それを人さまに納得していただけるとは考えていないのだ。事実、たまさかそんなことを言うと、何を馬鹿なことを言っているのだ、おおむね枯れ薄でも見誤ったのだろうと、一笑に付されるのが関の山なのだった。
 ここは一つ、修行を積んだ僧籍の身である権左にお出ましいただいて、ことの次第の裏付けをしてもらおう、というのが武之進の算段である。
 さあて、権左にこのお役目が勤まるものであろうか。日頃の言動をみていると、昼といわず夜といわず御酒をあびるように飲んで、はたまた大食し、豪快に世間の諸事を笑い飛ばして日々を過ごしている。
 およそ妖怪変化や魑魅魍魎のたぐいを、もっとも信じていないのが権左ではないか。
 なまじ商売柄というのもおかしなものだか、常日頃からひとの悩みを聞いたり、お弔いの面倒をみたりと、ひとの生き死に精通しているが故に、この世には説明のつかないことがないと考えているような節がある。

 今宵は晦日。
 件のご用を仰せつかってからはじめての晦日となる。生まれも育ちも房州だが、江戸に出てからの武之進は水があったのか、すっかり江戸の風に慣れている。なんのことはない、だんだんに気が短くなっていて、思いついたらすぐにでもやってしまわないと気が済まないという性分になってきているのだ。
 だから、晦日狸の正体を見極めて、あわよくば、これを討ち取るのは、最初の晦日と、はなから決めていた。
 本来ならば、気を長く持って、最初の晦日は下調べなりに当てるものである。それを、最初から押っ取り刀で待ち伏せしようというのだ。
 そのために、武之進はこの日、昼間から精進潔斎、水ごりなどして身を清め、新しい褌をきりりと締めて、神仏にも成就を祈願するのだった。

 武之進がはやる心を抑えがたく思っている、この日の昼下がり、件の惨殺死体が倒れていた裏門の外では、別の人影が見えた。
 それは常日頃、この界隈を回っている陰陽師であった。惨殺死体の一件を聞きつけて、さっそく御祓いのまねごとでもと現れたのであろう。
 御祓いの祈祷をあげて、何がしかの御布施にあずかるというのが、この門付けの陰陽師の生業なのであった。
 この門付けの陰陽師が白木の神棚を担いで回ってくるのは決まって日が沈もうというころだが、この日はどうした了見か、あるいは回る道筋を変えたのか、昼下がりに現れた。 すでに件の仏が横たわっていたところには、近所のものの仕業であろうか、手向けの野の花が幾枝が備えられている。
 陰陽師がチャンチキと鳴り物を鳴らして門前で神妙にお題目だか祈祷の声明だかなんだか、誰にも意味が分からないような唸り声のごときものを、ぶつぶつと口の中で唱えていると何がしかの心付けがいただけるという仕組みになっている。
 この昼下がりも、鳴り物の音を聞きつけたのか、屋敷の奥から側御用人の笹木孝次郎が何がしかの賂を持参して裏木戸に現れた。
 笹木は井桁藩江戸屋敷の番頭格であり、のんびりとした武之進などには多少とも煙たい存在ではあった。何事にも杓子定規なので、こんなときも決まり事は決まり事と奥からわざわざ出てくるのだった。
 こんな些細なことは中間なり小者なりに任せればいいというものを、わずかばかりの賂を手渡すという程度のことでも人任せにはせず、自ら手渡そうとするのだった。なんとも細かいことだ。
 そもそも還暦間近にして隠居しないという笹木はおかしいともっぱらの評判だ。
 武之進の岳父、不覚斎など、数えで五十になるかならずで、息子の武之進が出世して隠居料を払えるようになったら、それをいただいて早々と隠居しようとしている。
 いや、すでに役職を解かれて、それでなくとも半ば隠居同然ではあったのだが。
 笹木は、その性状を現しているかのように、こすっからい小さな目を瞬かせ、小柄な身体を、これはなかなかに上等な単物に包み、多少とも威厳を正して小銭を渡すと陰陽師のほうでも心得たもので、なんとか大明神などと書かれた御札を手渡している。
 普段とは違い、この日のお題目にはれっきとした理由がある。まさにこの裏門の木戸の脇でおそらくは切り付け強盗か辻斬りの仕業と思われる刃傷沙汰があったのだ。
 これは念入りに御祓いをする必要があった。
 そんなことであるから、珍しく笹木のほうでも多少は多めに祝儀を弾んだものと思われる。
 まったくなあ、笹木様もお役目大事、神仏に祟りがあってはならないと思うお気持ちは大切だが、あんなことはわれわれ下のものに任せればいいのに、と裏門の脇に控えている門番役の中間が内心、不満そうに眺めている。
 それもまた、毎度毎度、繰り返される、いつものような井桁藩江戸屋敷の風情であった。

 さて、晦日狸の件だ。深夜のお屋敷内で実際には何が起こっているのか。それを確かめる術は、その場に出かけていって、その目で確かめるほか、仕方がない。
 武之進は例によって袴立ち、白繻子の鉢巻きをきりりとしめ、たすき掛けである。親の仇にめぐり合ったというわけでもないのに、生真面目なことだ。
 準備万端とばかりに気合を入れ、長屋の座敷に座ると仏前で神妙に多少の念仏などをあげて深夜を待つ。
 そんなところに、権左が例の調子でがらりと木戸を開けて、そのままずけずけと座敷に上がってきた。
「おう。ごめんよ。上がらせてもらいますよ。なんだ武さん、すっかり用意ができているじゃないか。いやあ、関心、関心。拙僧もそれなりに、用意万端整えて、ただいま参上つかまつった」
 と、ばかに芝居染みて言いかけたのだが、なんのことはない、普段通りの着たきり雀である。おみねが奥の座敷で簡単な晩酌の用意をしながら笑っている。
 二人はおみねの用意した、少しばかりの香の物を間に挟んであぐらをかくと、これも用意の大徳利からお互いの杯になみなみと注いだ。
 討ち入り前は御酒をいただくと、はなから決めているようである。権左などは、むしろ、そっちのほうに思いが傾いているではと思える節がある。
「しかしなあ、武さん。今宵は確かに晦日だが、本当にでるのかねえ」
 と、早くの一杯目の杯を飲み干した権左が、左手に持った杯を傍らにひかえるおみねに差し出して、お代わりを催促している。
「まあなあ、出てくれないと、なんのためのお役目だか、わからなくなる」
 武之進も頭を抱える。
「出なきゃ、出ないで、いいじゃないか。拙僧もつまらん殺生はしたくない」
「なんだ、権左、狸がでたら、仕留めようという算段かい」
「おうよ。これはこれで、楽しみなものだ。見事仕留めたら、狸鍋にでもしようということさ」
「これはこれは、お坊様から、そのような不浄のことを聞くとは思わなかった」
「なにさ、すっかり綺麗にたいらげてやるのが、本当に引導をわたすということさ。いきなり締め上げて、そのままにしてしまっては成仏できない、これも功徳というものさ」
 いつもながら、すっとんきょうというか、それらしい理屈をつけて、なんとか酒にありつこうというのか、意表をつく権左の屁理屈である。
「そういうものなのかねえ。拙者にはわかりかねる理屈だが。こっちも狸鍋ならばご相伴にあずかりたいが、御坊の口から聞くとはおもわなかったねえ」
「なにをいいやがる。日頃、悪食を繰り返しているのはお互いさまじゃねえか」
「はは、まあ、それには違いねえ」
 と、二人はこの日はじめて豪快に笑った。これで深夜のお役目の緊張もほどけるというものであった。

 そして、いよいよ晦日狸がでるという丑三つ時が迫ってきた。
 あたりは静まり返り、暗がりでは人の形もおぼろになる闇夜だが、空を見上げれば満天の星空であり、歩くのに不自由することはなかった。
 武之進と権左の二人は、そっと表の木戸を開けると、近所にも気取られぬように、長屋の軒下をたどって、表に周り、表玄関をすぎて庭づたい、飛び石つたいに屋敷の裏側へと向かう。
 武之進はここで足袋裸足になると、身をかがめ、左手は脇差しの柄に添え、右手を低く構えて屋敷の高廊下の脇にそって音もなく中庭へと向かう。
 お屋敷内のこと故、二本差しというわけにはいかない。武之進にとっては刃渡り一尺五寸ばかりの脇差しだけが頼りだ。
 ちなみに鑓は御拝領の中堂来だが、武之進の腰の物は家の納戸に転がっていた無銘の大小を無造作に持ち出したものであった。
 いたって地味な拵えであるところが、いかにも武之進であった。品地家はもと佐賀藩とも鍋島藩とも伝えられているから、大刀のほうは、これはもしかしたら室町に遡るのではないかという、刷り揚げで切っ先鋭く、刀身は細く、反り充分にして波紋も乱れてなかなかに華麗なものである。脇差しのほうは重厚な肥前刀であり、こちらは備前に居を構えたころの先祖の差料であったのか。
 そもそも武士の大小は、それぞれ異なる刀工の作を帯びるのが定法である。
 ご存じのように刀は実戦において折れる、曲がるものであった。場合によっては鍛え目にそって裂け、ひどくなるとササラか箒のようにバラバラになってしまう。
 そのような、命のやりとりをする急場で、肝心要の刀が折れてしまったのでは武士の名折れだ。すかさず脇差しを抜き放つということになる。そのための脇差しであった。
 では、なぜ大小を異なる刀工のものとするか。
 折れたからか、あるいは曲がったから太刀を打ち捨てて脇差しを使用するのである。同じ刀工のものであったら、またしても折れる、曲がるという仕儀になると予想できる。
 命のやりとりをする、まさにそのときである。万万が一、そのようことになれば、己の命が危うくなる。
 およそ刀というのもは、日頃から滅多やたらにものを切るものではない。すべての刀を様々な場面で、色々なものを使用して試し斬りするということはない。
 いきおい、実際に使用するのは実戦がはじめて、などということにもなる。そうしたときに、折れたり曲がったりしては困るのである。そのための予備としての脇差しであり、二本差しであった。
 だから、同じ刀工のものは用心のために使用を差し控える。そこまで考えた上での、つとめて明快な条理であり、実戦を乗り越えたものの知恵であった。
 刀身は異なる刀工のものを拵えておいて、外装の意匠は共にして誂えるというのが武家の習いであり、粋なのであった。実に合理的であり洒落たものである。
 伝説的な名刀匠が鍛えた大刀、日輪丸と小刀、三日月丸が別れ別れになって、夜毎お互いを求めて鍔鳴りして呼び合う、というような物語は講談本の中だけのことで、日頃の備えを怠らない武家の作法を知らない夢想であった。
 大小は同じ刀匠の作を揃えなければならないとか、揃えば秘宝の隠してある場所が分かるなどということは実情からはかけ離れていた。
 閑話休題(それはさておき)
 もとより品地家のお家芸は鑓一筋である。太刀は、これに重きを置いていなかったようなフシがある。平時とはいえ、これを華美に飾ろうという了見を品地家はもちあわせていなかった。
 まことに無骨な拵えをほどこした脇差しひとつに命を賭けた武之進である。
 身を伏せるようにして摺り足で進む武之進の後ろを歩く権左は、何も恐れるものはない、といった風情で、見上げるような大入道が肩をいからせ、辺りを睥睨するように大手を振って歩いている。
 いつもの煮染めたような僧形で、どこか持ってきたのか、これも元の色がわからないような手拭いでひねり鉢巻きをしている。
「権左、少しは静かに歩いたらどうだ」
 と、武之進がささやき声でとがめる。
「なに、狐狸のたぐいであれば、拙僧の法力を恐れて怖じ気づき、退散するであろう。しからば声高に勤行を唱え、この通り、ほうばの下駄も高らかに、進めばそれで解決するであろう」
「何を言っているんだ。おれの見立てでは、今回の事件は、狐狸のたぐいと決まったわけではない。何か裏の事情があるように思えて仕方がないのだ」
「っていうと、人間様の仕業だというのか」
 と、権左がわざとらしく辺りを見回す。
「そうとは決まっちゃいないさね。それでも用心に越したことはない。第一、御坊の法力とやらの御利益がいかほどのものであるか。狐狸、物の怪のたぐいが恐れ入らなかったら、どうする」
「何を言いやがる。おきゃあがれ」
 とは言ってみたものの、そう言われれば、そうかもしれない。そのことに思いがいたると、さしもの権左もぶるっと身を震わせると腰をかがめたのであった。
 屋敷の西南の端、そこから右手をのぞくと、そこが中庭になっていて、中央にもしものときの用心のためにうがった古井戸がある。
 そもそも張り出した台地が無数の谷を穿ち、湧き水が豊富な麻布のことである。清水に事欠くことはなかった。したがって、もとより飲食のための水汲み場ではない。いわば中庭の景色のようなものである。
 その古井戸の横に、まあ誰が置いたのか垢抜けない、大げさな狸の置物が鎮座している。なんともその場にそぐわない。
 これが月が姿を見せない晦日の夜に動くというのだ。
 あるときは単にそっぽを向くだけだが、ひどいときは三尺も移動している。
 御殿女中は怖がって近づきもしない。御他聞を恐れて、藩内でも屈強な小者が二人がかりで、その都度、元の位置に戻している。なんとも面倒なことだ。
 今宵も月は絹糸一筋の姿も見せない。しかし、満天の星はそれゆえに漆黒の夜空は金銀の真砂を蒔いた漆絵のごとくである。
 なかなかに明るいのだが、あまつさえ、およそ夜目が効かない連中が多いなかで、悪食である武之進も権左も日頃、八目鰻などを食しているためか、不自由は感じていない。
 あれは芝の増上寺あたりであろうか、丑三つ時を告げる鐘の音が低く広がる。
 その鐘の音が陰にこもって、ボーンと響くさまは、恐ろしさに身の毛がよだつ、というのだ。
「くるぞ」
 武之進は予感のごときものを感じた。
「ああ、拙僧でも、やるとなったら丑三つ時だ」
「なにを言っていやがる。いかにも出そうだ、という頃合いだろうというのかい」
「誰でも、考えることは同じだろうよ」
「ほほう、御坊は狐狸のたぐいの同類であったか」
 と権左の失言を笑う武之進であった。
「しっ。武さん、現れたぜ」

 まさかという顔をした武之進であったが、静かに片膝をついて柄頭に右手を延ばすと、いまにも鯉口を切ろうとする。
 夜陰に乗じて現れたのは、先に聴取した中間ちゅうげんの片割れであった。
 これから狐狸妖怪、物の怪のたぐいが現れるという井戸端に潜んで肝試し、度胸試しでもしようとしているのだろうか。武之進たちには気づいていないようである。
 この中間、狐狸妖怪が現れるのを暫しの間、この中庭の一角で待とうというのか。
 おっかなびっくり、小腰をかがめて中庭に忍び出ると、辺りをうかがい、半ば四つんばいになるようにして古井戸を目指している。
 古井戸の中を覗き込もうというのか。これは、なかなかに度胸がある。物の怪が現れて狸を動かすとしたら、それは古井戸の中から現れるということだろう。なるほど、武之進もそのことには思いが至らないでいた。
 まだ年若いようである中間は古井戸の端に手をかけると、一つ伸び上がって、また辺りをうかがい、何事かを確かめている。
 動くという狸の置物はこのとき、まだ微動だにしていない。
 忍び寄る怪しげな輩を感じれば、狸の置物のほうで脅かしてやろうと動き出すのではないかと思われたが、その気配はない。
 中間はもう完全に四つんばいになると井戸の端を回って、いましも狸に手をかけようというところまで来ていた。
「おい、武さん」
 と権左が後ろから声をひそめて武之進にささやくものだから、武之進もウムと喉を鳴らして生唾を飲む。
 中間が狸の左肩に手をかけたかと思うと、右手を股間に延ばし、一端、手を放すとペっと唾を両の手に吐きかけて、ぽんと柏手を打つようにすると、ふたたび狸に手をかけた。「あああ」
 と権左が素っ頓狂な声を出しかけたが、すんでのところで飲み込んだ。
 武之進もなかばあきれたように目を瞬かせる。
 よっと掛け声をかけて中間は力を入れると両の腕と両のふくらはぎにモリモリと力こぶができる。
 そのまま力任せに狸を抱きあげると、よろよろよろと三歩も歩いて、どすんっとばかりに狸を投げ出し、ずりずりずりと左右に動かすと一端は天を仰いで確認すると狸の顔を東の方向を向けた。
「へへ、ざまを見ろッてんだ。俺様にかかればこのざまさね。こんなところまで動かしたのは俺様だけだ」
 と中間は独りごちると、今度は意気揚々とばかりに塀づたいに歩み去っていった。
「おい、武さん」
「ああ、権左」
「あれは、なんだ」
「おれもそう思う。あれは何をしていたんだ」
「這ってきて、狸を動かして、帰っちまった」
「うむ、どうも解せないな」
「そうだろう。拙僧も腑に落ちない」
「あれが、肝試しなのか」
「そうとしか、見えないな」
「つまり、狐狸のたぐいの仕業ではなく」
「狸を動かしたのは、中間共ということになる」
「それも含めて、これが肝試しなのか」
 二人はあきれたように顔を合わせた。
 狸の置物が動くというのは中間共のいたずらと力試しであったのか。それを誰かが狐狸妖怪の行いだと誤解したのか。
 それとも、知った上で周りのものをたぶらかしたのか。もしも、そうだとしたら、余計な噂話を故意に流したということで罪科に問われるだろう。
 人心を惑わした、ということになる。これはこれで由々しき事態と武之進も半ば怒りを隠せない。
 そもそも、こんな夜夜中に、こんなところで蚊に食われていた自分が情けない。
 これはどうでも明日、早々に中間共を、とっつかまえて説教しなけれはならないと腹を括った。
 夜道を帰る道すがら、権左も憮然として口をきかない。いつも何だかんだと文句をつける権左も、こんな馬鹿馬鹿しい事態に何を言っても無駄なことと得心している様子である。
 長屋の前まで来ると権左はへの字に曲げた口をしっかりと結んだまま、挨拶もなく憮然として裏山にある自身の僧坊へと帰っていった。
 武之進としても面白くないのは同然である。好き好んで、こんな夜中に見張り番をしたわけではない。こともあろうに中間風情の度胸試しの片棒を担がされたことになる。それが実に不愉快なのだ。
 いっそ狐狸妖怪の大親分でも登場してくれたほうが、気分もすっきりとするというものだ。
 長屋のたたきでぶつくさ言いながら、裾を埃を払っていると、奥からおみねが今夜の首尾を尋ねる。
 うるさいとばかり片手をかざして左右に振るばかりの武之進であった。
 そんな武之進をおみねが、あれまあ武之進殿はご機嫌ななめだよう、とばかりにあきれ顔で見つめている。

 翌日、武之進には本来の仕事である汲み取り業者との作業があった。
 日の出待て現れる数人の業者を案内して勝手知ったる屋敷奥に導く。屋敷の裏手に設えられた汲み取り口を開けて、人足然とした業者連中が作業をするのを傍らで監視するのが、武之進のお役目だ。
 手には大福帳のごとき大降りの帳面を抱え、右手で矢立の墨をたっぷりと吸わせた筆で、おもむろにこの日の肥桶の数を記入していく。
 奥から始まって詰め所、長屋と下ってくる作業は毎月の五日、十日、十五日、二十日と五日おきになる。それで事足りてしまうのは取りもなおさず、当井桁藩の藩士が少ないことによるのだった。くみ取られてものは金肥と称される肥の中でも武家屋敷、なかでも藩主や旗本の屋敷から出たものは、とりわけ品質が上等と、近在の百姓共が珍重するお宝であった。
 この作業に昼過ぎまでを忙殺された武之進は、お屋敷のほうに顔を出して、この日の収穫を報告し、同僚に挨拶するのももどかしく、中間小屋を訪れた。井桁藩江戸屋敷は決して豪壮華美なものではないが、その中にあっても中間ばらが寝起きする中間小屋はまさしく、小屋というにふさわしい粗末なものである。
 遠慮もなく、その中間小屋の引き戸を開けた武之進は、ごめんの一言もなく踏み込むと、一息に畳みかける。
「みどもが今日、この場にまいった理由は先刻ご承知だろう。さっそくだが、件の晦日狸の一件だが。昨夜も出たな」
 いつもみ温厚な武之進の口ぶりがいつになくきついので、ちょうど居合わせた中間共が目を瞬かせている。
 ちょうど遅い昼食ちゅうじきでも使った直後であったのか、渋茶とキセルに刻み煙草を詰めようとしている中間の一人が、まだ半分はくちくなった腹をさすりながら眠っているような、のんびりした返答を返す。
「はあ、出ましてございます」
 いかにも間抜けな応対である。
「それを其処許達は知っていた。知っていて黙っていたのか」
 武之進、いつになく居丈高である。
「そんなことはございません。せんだっても申し上げましたように、あれは肝試しなんで」
 中間のひとりが頓狂な顔つきで、さも当たり前のことのように応対する。なにを武之進がいらだたせているのか、皆目検討がつかないという塩梅だ。
「確かに肝試しとは聞いたが、すべてが其処許達の仕業であるとはきいていないぞ」
 さすがに武之進も気色ばんだ。いまにも抜刀しそうな勢いである。
「そんなはずはねえんでござんすが。へえ、はっきりと丑三つ時に古井戸の前まで行ってくると……」
 とこの後に及んでも要領を得ない。
「そこまでは聞いた」
 と、武之進も、もどかしい。
「ですから、行った証に狸を動かす、ということになっていますんで」
 この前、ここに来て聞いたとき、狸のことは出なかったような気がするが、あるいは先を急いだばかりの武之進の早とちりであったか。どうも武之進はのんびりしているくせに早とちりの傾向がある。
 どうにも、こちらの落ち度では武之進も引っ込みがつかない。中間風情にたばかられ、侮られるようでは、武士の沽券にかかわる、という気持ちが日頃はおだやかな武之進にもないわけではない。
「最初のころはですが、丑三つ時に狸を少し動かせば、それで次の日の明け方近く、仲間うちの不寝番が、朝一番のお役目で中庭を見回るついでに直しておくことになっていたんでさ」
「それが、このやろうが」と隣に控える屈強な若者を目で示し、一つ平手で頭を叩いた。「六尺も動かしてしまいやがって」
 と言って、もう一つ頭を叩いた。
 そこに、隣に控えていたやや年かさの中間か口をはさんだ。
「それで、こいつはまずいや、どちらかに見とがめられたらお叱りをうけると、三人がかりで直しているところを、朝お支度をしていたお女中衆に見とがめられてしまったんで、こいつは狸が動かしたんで、と言い訳をしてしまったという」
 と、頭を掻いた。
「それ以来なんでさ。度胸試しに力自慢が加わっちまった。おかげで、手柄は若い者に横取りされてしまうばかりで」
「なにをいいやがる。お前さんも、無理をして動かそうとして腰を痛めたぐらいじぁねえか」
 と、若い者が茶々を入れる。
 お女中衆に見とがめられたのはいいとして、そのあとも続けた理由が釈然としない。それでやめておけばよかったのではないだろうか。
 そんな武之進の疑問には、中間の一人が答えた。
 置物の狸を動かして遊んでいたと触れ回られたのでは、おとがめもあるだろうと、我等が名折れである、とつまらない了見を起こした。
 ここはいっそ、狐狸妖怪のたぐいが動かしたのを我等が元に戻しているのだと釈明しよう、とこう衆議一決した。
 となると、あれはあの夜だけのこと、というのもおかしなものである。こうなったら、毎月の晦日に出る、ということにしたらどうだろうか。
 いままで通り、力自慢もできるし度胸試しもできる。それにそうしておけば女中どもは怖じ気づいて近寄らないだろう。
 一石二鳥というよりは一石三鳥ではないかと一同、悦に入ったという次第だった。
 なるほど、それで晦日狸か。武之進もようやく得心がいった様子である。いままでの怒りもどこへやら、中間どもの知恵に半ばは関心している。そこが人の良い武之進である。「しかし、なんだってあんな用もない古井戸が度胸試しになるのかな」
 と、これも武之進らしい疑問である。武之進はご存じのように、まだ江戸表に来てかさほどの日にちがたっていない。この井桁藩江戸屋敷にまつわる諸々のことに精通しているわけではない。それぞれのいわく因縁について詳らかではないのだ。
 およそ日々の暮らしが今に至るまでの習わしによって動いている頃のことである。そのそれぞれに、どうしてそうするのかという言い伝えがあり、これを守らなくてはならないのだ。まことに面倒くさいといえば面倒くさい。
 それは、ともかく。もともと度胸自慢の中間衆である。確かに十貫目もある大狸の置物を動かせば、力自慢にはなるだろう。しかし、それが度胸試しになるというのは釈然としない。
 何かそれなりの、世の中に恐ろしいものなど何もないと普段から公言している中間どもが怖がるようなことがあるのだろうか。
「だいたい、なんだって、あんな古井戸が度胸試しになるんだよ」
 と武之進がもっともな疑問を投げかけた。
「あそこには、先々代のお殿様が手をつけたばかりに、飛びこんだ、およう様の幽霊が出るという、中間仲間、代々の申し送りがあるんでさ」
「そうなんで」「もうそれは確かなことで」「ご存じありませんか」
 と口々に述べ立てる。
「これは異なことを聞く。先々代の殿は名君といわれ、確かに側室は据えられたが、無闇に女性にょしょうに手をつけられるようなおかたではない」
 中間どもの滅相も無い言い方に、主君を傷つけられた思いの武之進は必死に抗議する。「それが、およう様という御方が……」
 側用人のひとりに宮松某という御仁がいて、その一人娘おように殿のお手がついたというのだ。
 それを名誉とは思わずに、苦にしたのだろうか、あるいは心に決めたひとがいたのだろか、事情は定かではないが、殿のねやに上がった、その翌日、何を思ったか、そのままお屋敷内の古井戸に身を投げたというのだ。
 それが中間どもの言いぐさであった。
 これは異なことを聞くと武之進は腑に落ちない。
「その、お手前らがおよう様というのは、もしや、森坂様のご母堂のことではないか」
 森坂というのは、同じく井桁藩の側用人、かなりの高齢で、もうとっくに隠居している。その森坂の母親が、確か宮松家から嫁に入った、およう、という名ではなかったか。
 そのことを武之進は中間どもに質してみた。
「そんなはずはござんせん。森坂様のご母堂とおっしゃれば、あのしわくちゃの梅干し婆じゃござんせんか」
「だから、その梅干し婆、いやご老女が、およう様であろう」
「だって、そんなはずはないやね。あんなしわくちゃの……」
「先々代のお殿様がご壮健なころは、あれでも若かったのが分からんか」
 当然のこととして、武之進は中間どせの不明を叱責する。
「あっ」
 中間どもが鳩が豆鉄砲でもくらったような間抜けな顔つきをする。
「それよ。確かに、先々代の殿の側室、おようの方様にはそんな噂があったことは身共も父から聞いている。ある日、突然、この江戸屋敷から姿を消したと……」
 と、武之進も父からきいた不確かな記憶をたどりはじめた。
「左様でさ。姿が見えなくなったというので、お屋敷内を探してみたら、井戸に身を投げたと」
「であるから、それが違うというのだ」と武之進もいらだつ。「なにやら国元に急用ができて、とるものもとりあえず、帰郷してしまったということだ」
「それじゃ、いけませんやね。話の辻褄が合わねえや」
 と、したり顔の中間。
「左様。上役、ご同輩、かくかくに挨拶もしないで屋敷をでるなど、もっての外である」 と、武之進もこの点に関しては同調する。
「まったく、何があったのかは知りませんが、忽然とお屋敷内から姿を消せば、周りは大騒動になること必定、それを知らないで、取るものもとりあえず、おお急ぎで国元に帰っちまった、ってことですかい」
 中間ばらにあきれられるようでは武家の息女は勤まらないのだが、ときどき、そのような頓狂をしでかす女性(にょしょう)は居るものだと、武之進も知ってはいた。
 そして、藩内のものがふと気がついたときには、何事もなかったように、おようは殿の側室であったにもかかわらず、宮松家から森坂某の嫁になっていた。
 そこには、それなりの事情があったのだろう。殿と宮松、森坂様のあいだに、何事かの取り決めがあったのかもしれない。
 それは武之進にしても、与り知らぬことではあったが、これでこの一件に多少のめどがついたと、武之進は内心、胸を撫で下ろしていた。
 そして、次に思い至ったのは武之進自身とおみねのことであった。二人の婚儀は藩内でも知らぬ者とてないことだが、それをあからさまに物語りするものはいない。あれは殿からの拝領妻だなどとことあれかしと噂することはないのだ。
 いや、本当は面白おかしく物語している、のかもしれないが、面と向かって武之進やおみねに、そのことを申し立てるものはいない。
 第一、そんなことをすれば、のんびりしているようではあるが、一面では直情型でもある武之進のことでるから、いきなり一刀両断しないともかぎらない。それゆえの遠慮がお互いのあいだにあるのだった。
 そして、こんなことは月日と共に忘れ去られるであろう。
 確かにお褥さがりのものを永く奥にとどめることをしないのは、井桁藩代々の家風なのかもしれない。これは小藩である井桁藩の財政とも密接に関係していることだ。
 これはこの時代にあって美風でありこそすれ、非難されるごときものではなかった。
 しかし、年月を経て、ある日、お屋敷内からいなくなった女性の記憶と殿のお手がついたという事実だけがあわさって、こんな草双紙まがいの物語に変容していったのであろうか。
 武之進がそんなことを考えているとき、中間の中でも年かさの一人が、
「だから言わねえこっちゃねえ。お化けだ、幽霊だなんていってもなあ、所詮はススキか柳の枝が風にそよいでいるだけだっていうじゃねえか。そんなものを怖がっている、てめえらの日頃の了見が、大間違いだっていうことさ」
 とどうだ、恐れいたか、とばかりに年の功を発揮して、分別じみたことをいい、若い連中の世間知らずを叱りつけた。
 これだけの歳を重ねると、この世の中にあり得ないものが見えたり聞こえたりするのは、なにかの思い違いだろうと、うがった見方をするようになっているのだ。
 そんな説教をこの粗末な中間小屋の梁に住み着いている、これも粗末ななりの貧乏神が梁に両足を引っかけて逆さまにぶら下がって、笑いを堪えて見下ろしている。
 そして、その姿を見とがめて、ふと梁を見上げた武之進と目が合うと、おっといけねえ、とばかりに姿を消した。
 自分の姿は常人には見えないものとたかをくくっていた貧乏神があわてている様が、なんとも滑稽である。
 どうやらお江戸の妖怪は房州井桁藩界隈の妖怪とは趣が違い、ひとを小馬鹿にしているような節がある。はなはだ失敬な輩どもだ、と武之進は少しばかり憤慨している。

 それにしても、お屋敷内をこのところ一年ばかり騒がしていた、晦日狸の正体が中間どもの肝試しと力自慢のためであったとは、おそれいった。
 どうも、このところ公私ともに暇でいけない。余計なことを考える暇があるから、余計なことを考えるのだ、見えないはずのものが見えてしまうのもそれだが、考えすぎて詰まらない結末になる、と武之進も自らの早とちりを恥じるのであった。
 ともかくも、狐狸のことゆえ物の怪とも思えるので、念には念を入れて僧籍にある権左までをも同道させたが、結果は中間連中の暇つぶしと度胸試しと力自慢であった。
 中間部屋を後にした武之進はその足で長屋を迂回し、御用人衆の控えの間に入ると、直属の上司である香坂上衛門に逐一、ことの次第を報告した。
 香坂は、武之進の話を、なかば物語か講談本のたぐいを読んでいるときのような顔をして聞いていたが、次第に不快な面持ちとなる。
「それで、品地殿は、その中間どもの話を、そこまでまるごと聞いて、そのままお咎めもなく、こちらにお戻りになったと」
「はあ、左様でございます。これといって、何を咎め立てしていいか、思案するまでもないと納得して戻ったのですが、いけませんでしたでしょうか」
 香坂が顔をしかめる。
 武之進にしたところで、中間どもを咎めるなどという気持ちにはなっていなかった。まして、咎め立てをするとしても、いったいどのような裁きをすれはいいものやら。
 人心を攪乱し、あらぬ噂を流し、当井桁藩の評判を失墜させたということになるのだろうが、それにしても狸が動いたのは、身共どもが動かしたのです、では収まりがつかない。まったく、なんとも間の抜けた話なのだ。
「品地殿。それではお屋敷内に示しがつかないではごさらぬか。そうはお思いにならなかったか」
「はあ、おかしな話と、なかばは笑いをこらえておりました。そして、こんなこととは気がつかなかった己の間抜けを恥じた次第でございます」
「たしかに、お手前の不首尾だ。そもそもは、其処許の話どおりだとすれば、最初に中間部屋を訪れたときの話で何もかも判明しているではないか」
「左様で」
 と、答えて、思わず笑ってしまった武之進だった。

<続く>

※次回は10月24日に配信予定。

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初出:P+D MAGAZINE(2022/10/11)

◎編集者コラム◎ 『海が見える家 旅立ち』はらだみずき
【著者インタビュー】斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』/ベストセラー『82年生まれ、キム・ジヨン』の翻訳者による韓国文学のブックガイド