◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第1回

◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載スタート
新居へ越して3日目、仕事を終えた夜8時。私は私に、重大な使命を与えた──。

第1話
3日目のオーブントースター

 

 ドアのチャイムが鳴って、宅配便が届いた。

 配達員さんから受け取ったその真新しい箱を、部屋の隅に積み上がったままの引っ越し用段ボールの一番上に神棚のようにのせると、私はパソコンの前に戻って仕事の続きに取り掛かった。

 この小狭い新居に引っ越してきてからもう3日目なのに、荷物は一向に片付かない。その理由は簡単で、私にそもそも片付ける気が無いからだ。1日目にとりあえずベッドを組み立てて、当座の服と最低限の生活用品、仕事用のパソコン周りの諸々を取り出してからはほぼ何もしていない。

「決してズボラってわけじゃないんだけどね」

 と、私は私に弁解する。仕事の締め切りも迫ってるし、引っ越しも一人暮らしも久しぶりだから、しばらくはこの殺風景で中途半端な感じを楽しみたい。

 子供の頃、夏休みに庭にテントを張ってもらって妹と一緒に数日寝泊まりした時にも似た感じだ。もっともその時は蒸し暑さに耐えきれず、毎晩早々に家の中に逃げ込んだのだけど。

 

 仕事に没頭していたらいつの間にか夜8時を過ぎていた。椅子の上で思いっきり伸びをした私の視界をよぎる届いたばかりのオーブントースターの箱。そうだ、今日のうちに買っとかないといけないものがあった。私はいそいそと支度をして歩いて5分くらいの所にある小さな24時間スーパーに向かう。この街で私はまだ異邦人だ。まるでテントみたいな部屋で寝泊まりしながらこのまま宙ぶらりんに暮らすのも魅力的だけど、さりとて私はずっとスナフキンでいられるはずもない。いつかはまた「生活」を始めなければいけない。その生活の第一歩を踏み出すために、私は私に今日スーパーで食パンを買う使命を与えたのだ。

 コンビニに毛が生えたような小さなスーパーにたどり着くと、私はその重大な使命に従って、まずはカゴに8枚切りの食パンを放り込んだ。バターとブルーベリージャムも放り込む。ジャムは裏ラベルをしっかり確認して、なるべく糖度が高そうなのを慎重に選んだ。普段お菓子やケーキなんかの甘いものにはさほど執着しないたちだけど、それとこれとは全く話が別だ。甘さ控えめのジャムは朝の気持ちに何の引っ掛かりも残さず、ただ喉の奥に粛々と消えていくだけだから。この店で一番甘そうなブルーベリージャムは、輸入物で内容量も多くて値段も一際高かった。でも冷静にグラムあたりの単価を計算したら他とさほど変わらなかったし、糖度が高ければ日持ちもいいはずで、それを選ばない理由はもはや何ひとつない。

 コーヒーは小さなパックのレギュラーコーヒーを一度は手に取ったものの、少し悩んでインスタントコーヒーの小瓶にした。コーヒーを淹れるためのフレンチプレスがあの部屋に積み上がった段ボールのどこにあるのか全く思い出せなかったからだ。ともかくこれで明日の朝のための買い物は終了した。ミッション・コンプリート。後は今晩の食料だ。

 

 最初はお弁当を買うつもりだった。でも急に嫌になった。お米とおかずと副菜と漬物、みたいな一通りちゃんとした食事を生活未満のあの部屋に持って帰るのは、なんとなく気が進まなかった。

 お弁当の代わりに、サンドイッチコーナーからハムレタスサンドをカゴに放り込んだ。本当は卵サンドが好きなのだけど、唐突にある計画を思い付いて急遽そっちにしたのだ。レジで支払いを済ませると、その計画に従って、帰り道にあるコンビニに寄って肉まんを1個だけ買った。肉まんと卵サンドの組み合わせは好きなものばかりで決して悪くないものの、それはさすがに緑のものが無さすぎてあんまりだ。その判断をさっきあのスーパーで瞬時に下した私は圧倒的に正しい。ハムレタスサンドに挟まっているレタスは野菜と言うにはあまりにも頼りないけど、こういうことはまず形式が肝心。本質的な意味での野菜はそのうち「生活」が始まれば嫌というほど摂取できるはずだ。


 
稲田俊輔(いなだ・しゅんすけ)

料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に従事。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店、複数の業態の店舗を持つ人気店に。さまざまな角度から食を探求する書き手としても活躍する。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』(扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分! 本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ! なのに本格インドカレー』(いずれも柴田書店)、『おいしいものでできている』(リトルモア)。

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