◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第2回

4日目の炊飯器
朝ベッドの中で、昨晩ほろ酔い気分でうっかり追加のトーストを焼いてしまったことを少しだけ反省していたら、唐突に母のことを思い出した。子供の頃、トーストを食べるために冷蔵庫からいちごジャムを取り出してきてパンに塗ろうとしたら、姿見の前で出かけ支度をしていた母にいきなり窘められた、そんな思い出だ。いや、窘められたというよりそれは賢者の託宣のようなものだったかもしれない。
「パンにジャムしか塗らないなんてダメよ。一緒にバターも塗りなさい」
ああ、そう言われてみれば、と子供の私は思い出した。いつも母が用意してくれていたジャムトーストには確かにジャムの下にバターも塗られていた。通い始めたばかりの小学校の給食では、いつもパンにはマーガリンかジャムかのどっちかしか付いてなかったから、私はそのことをすっかり忘れていたのだ。
「イギリスではパンにジャムしか塗らないなんてあり得ないのよ」
と、母は説得力が有るのか無いのかよくわからない理論的根拠をそこに付け加えた。彼女はイギリスという国をなぜか絶対的に信頼していたのだ。私はイギリス人のことなんてどうでも良かったけど、バターとジャムが合わさった時のうっとりするようなコクと甘じょっぱさはとても素敵なものとして確かに舌に刻み込まれていたから、素直にその託宣に従った。
「ジャムはね、塗るんじゃないの。のせるのよ」
彼女は身支度の最後の仕上げに身体を捻って後ろ姿を確認しながら再び託宣を下した。私はなるほどと納得して、給食で出てくる小袋の倍以上のジャムを、バターでぬめぬめと艶めくトーストの上にモリモリとのせて頬張った。確かにそれがいつもの我が家の味だった。給食のジャム付きパンがちっとも美味しくない理由を改めて私は理解した。
母は、トーストに限らず脂っこいものや味の濃いものが好きだった。食卓には和食よりも中華料理の方が頻繁に並んだ。豚肉はだいたい豚バラ肉。豚ロースなんてせいぜい豚カツくらいにしか使えないつまらない肉、というのが彼女の持論だったからだ。和食で数少ない好物は鰻と天ぷら、そして豚の角煮。にもかかわらず彼女は私が知る限りずっとスリムだった。
残念ながら私はその幸福な体質を全く受け継いでいない。カロリーを摂り過ぎれば摂り過ぎた分だけ太る。だから昨夜、追加のトーストを焼いた時も、いかにも甘くておいしそうなブルーベリジャムとしばし睨めっこした挙句、それをそっと冷蔵庫に戻したのだ。バターは少しだけ塗った。そしてそこに、今ある唯一の調味料である塩を振った。昔勤めていた会社の近くの古い喫茶店で、おじさんたちがみんなそうやってトーストを食べていたのをうっかり学習してしまったのだ。こんな食べ方してるところは絶対に誰にも見せられないけど、それは2本目のビールに素敵にマッチした。
今朝のトーストには、心置きなくバターをぬめぬめと塗りたくり、そしてジャムをもりもりとのせた。約束されたおいしさ。私は歓喜に打ち震えながら、食べても太らない母のラッキーな特異体質は受け継がなかったくせに、その嗜好だけはしっかり受け継いだ自分を少しだけ呪いつつそれを頬張った。
夕方まではまた仕事に没頭した。パソコンに向かって一心不乱にキーボードを叩き続けることはさほど苦にならないけど、仕事は思った以上に調子良く捗ったから、途中で小一時間、ウォーキングとも言えないのんびりとした散歩に出かけた。散歩の途中、立ち食い蕎麦屋で春菊天蕎麦に生卵を追加して食べた。
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