◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第3回

◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第3回
1週間ぶりのまともな外出を前に、引っ越したばかりの私がやるべきことは、服の発掘だった。

第3話
5日目の小鍋とフライパン

 明後日が締め切りのちょっとした大仕事が、昼過ぎにはもう片付いた。今日は良く頑張った。仕事の単価がやや低いのは少々問題だが、それでも私は良く頑張った。そして生活にはメリハリも必要だから、今日はこれから美術館に出かけることに決めた。

 1週間ぶりのまともな外出だ。しかしひとつ問題がある。まともな外出に着て行けそうな服はまだどこかのダンボールの中だ。引っ越しの荷造りの時はさすがにまだ少し混乱していたから、服はいろんな段ボールにランダムに放り込んである。仕方ない。発掘開始だ。

 目当ての服が出てくるまでたっぷり2時間以上かかった。その間についでに掘り起こした目的外の発掘物をひとつひとつ、クローゼットやプラスチックケースやデスクのブックエンドの間に収納していったからだ。でも、おかげで段ボールは多少片付いた。

 しかしその代償として、外出する気力は完全に失われてしまった。美術館はあっさり諦めた。でも今日はもうひとつ、やっておかねばならないことがある。

 

 話は昨日の朝に遡る。

 私はトーストを焼きながらインスタントコーヒーを淹れるべく、部屋に備え付けのコンロに水を張った小鍋をのせた。コンロは生まれて初めて扱うIHコンロで、鍋は前居から勝手に拝借してきたお気に入りの赤いホーローの片手鍋。しかしコンロのスイッチを入れても、それは赤いランプが不機嫌そうに明滅するだけで、いっかな温度が上がる気配はない。

 作りつけの食器棚に置かれていたIHコンロの取説をめくって、私はようやく理解した。IHコンロにはIH対応の鍋というものが必要なのだ。私は仕方なくインスタントコーヒーを水道水で溶かして、ホットでもアイスでもない無様なコーヒーを飲む羽目になった。

 そんなわけで私は、美術館と家の中間の駅にあるショッピングセンターに目的地を変更した。オーブントースターはアマゾンでも良かったけど、鍋は実際に手に取ってみなくちゃ。

 

 私はまずショッピングセンターの3階で、味噌汁でもインスタントラーメンでも肉じゃがでも単にお湯を沸かすでもオールマイティにしっくりきそうな片手鍋と、テフロン加工の小さなフライパンを(どちらもIH対応のタグを念入りに確認して)買った。そしてついでに2階で服やメガネなんかをぐるっと見て回った後、私は1階の食料品売り場に立ち寄った。

 ここでの主目的は調味料だ。さすがに家にある調味料がいつまでも塩だけというわけにもいかない。いつもの小さなスーパーと違ってここなら何でもある。お気に入りの銘柄もたぶんだいたい揃うだろう。さて、今の私はいったい何と何と何を買うべきなのか。実は2階のお店をぐるっと回っている間も、私はずっとそのことを考えていた。

 まずは前の生活において自分がよく使っていた調味料を、大体の登場頻度順に思い出してみた。


「キッチンが呼んでる!」連載一覧

稲田俊輔(いなだ・しゅんすけ)

料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に従事。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店、複数の業態の店舗を持つ人気店に。さまざまな角度から食を探求する書き手としても活躍する。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』(扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分! 本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ! なのに本格インドカレー』(いずれも柴田書店)、『おいしいものでできている』(リトルモア)。
Twitter @inadashunsuke

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