◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第7回

◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第7回
引っ越しを終え、祝杯を挙げた私は、そのアプリに新しい住所を登録した。

第7話
1日目のウーバーイーツ

 半日がかりで引っ越しを終えたこの部屋は、前居から運び込んだデスク、さっき苦労して組み立てたパイプベッド、小さなローテーブル、この3点で床面積の半分以上は埋まってしまっている。残りのスペースは、当座の荷物だけを詰め込んできた大きなキャリーバッグと部屋の片側に積み上がった段ボール箱のせいで、文字通り足の踏み場もない。窮屈と言えば窮屈だけど、なんだか住居というよりは「アジト」みたいでちょっとワクワクもする。

 アジトだと思えば段ボール箱もさほど気にならない……という事にして、今日はとりあえず荷解きは完全に諦めた。なんとなく明日も諦めていそうな予感もあるけど、まあそのうちなんとかしよう。

 玄関と部屋の間には一応こぢんまりとしたキッチンがあり、IHコンロと2ドアの冷蔵庫が備え付けられている。冷蔵庫にはさっきコンビニに寄ってとりあえず調達した麦茶のペットボトルと缶ビールが3本。その1本を取り出して、立ったまま独り暮らしスタートの祝杯を挙げる。普段はだいたい糖質オフの発泡酒ばかりだから、久しぶりの本物ビールはほの甘くて華やかな香りがして、今日という記念すべき日の「祝杯」に実にふさわしかった。

 祝杯ついでに今日はちょっと自堕落な贅沢をすることにした。ウーバーイーツだ。以前インストールしたきり数回しか使ったことのないアプリを立ち上げて新しい住所を登録すると、そそくさとメニュー選びを始める。

 

 ウーバーイーツのメニュー選びは大変だ。外食だったら、レストランさえ選んで入ってしまったら、後は腰を落ち着けてそこのメニューを吟味するだけ。でもウーバーだと、良さげなレストランを選んでそこにちょっと惹かれるメニューを見つけても、ついつい「いや他の店にはもっと素敵なものがあるのかも」という邪念が湧く。また店を選びなおしたり、下手すると料理ジャンルの選択まで遡って選び直したり、そのくせ結局、初志貫徹とばかりに元の店に戻ったり。でもメインはそこでよくてもさっき他の店で見かけたサイドディッシュが妙に気にかかって、そこに戻ろうとした時には既にどの店だったか憶えてなくて、それを探してるうちにまた別の気になる店を発見して……。

 あれはジャングルだ。分け入れば分け入るほどに出口がわからなくなる。でもそこでいったん冷静になると、実はどの店もそのメニュー内容には大差は無いことにも気付く。ましてそれがおいしいかどうかまでは実際に手元に届くまでは分からない。だから結局のところ当てずっぽうで選んだところで結果はそう変わらない……筈なのだ。

 だから今日は最初にきっちり方針を決めた。まずジャンルはエスニック。なんとなればアジトでの若干浮き足だったディナーには異国の料理が相応しいから。私は別に追っ手を逃れた異国の地で性懲りも無くまた新たな悪巧みを企てているわけでもなんでもなく、単に荷解きをサボって酒を飲みながらぐうたらしているだけの身ではあるが。

 そして、エスニックにもいろいろあるが今日はタイ料理と決めた。なぜならタイ料理のお店は基本的に「ハズレ」は滅多に無いから。見知らぬ街で適当に目についたタイ料理屋に入っても、だいたいの場合そこには判で押したようなメニューが並び、だいたい同じような味付けのものが出てくる。そしてそれは適度に非日常的で適度に人懐っこい間違いのないおいしさ。


稲田俊輔(いなだ・しゅんすけ)

料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に従事。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店、複数の業態の店舗を持つ人気店に。さまざまな角度から食を探求する書き手としても活躍する。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』(扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分! 本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ! なのに本格インドカレー』(いずれも柴田書店)、『おいしいものでできている』(リトルモア)。
Twitter @inadashunsuke

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