◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第9回

10日目のクミン
一時期インドカレー作りに凝っていた。
当時私は会社勤めを辞めて一応フリーの立場になったばかりだったが、それだけで食べていくのはなかなか厳しくもあり、時間の自由が利くのをいいことに近所の喫茶店でアルバイトを始めていた。
その店はドリップコーヒーと、それに洋酒やクリームを加えた甘いアレンジコーヒーが売りの昔ながらの喫茶店で、食事のメニューはサンドイッチとカレーくらいだったけど、マスターが作るカレーは贔屓目抜きで絶品だった。大量の玉ねぎや香味野菜を炒めてトマトピューレやスパイスと共に鶏肉を煮込むそれは、お店では「印度カリー」という名前で出されていたけど、私が知っているインドカレーともどこかまた少し違っていた。
マスターは元ロックミュージシャンにして元ヒッピーという、異色ながらもある意味ありがちとも言える経歴の持ち主だった。そしてこのカレーもヒッピー時代にインドで学んだという触れ込みだったが、ある時マスターは私にこんなことを打ち明けてくれた。
「インドで習ったってことにしてるけどさ……。あれはさ、嘘」
どうも、お客さんに訊かれたり、たまに雑誌なんかの取材を受ける時に「めんどくさいから」そう答えているだけで、実際は日本で独学で作ったらしい。
「インドではとにかく金も無かったし、安いもんしか食ってなかったしね。いやあ実にマズかったね、その時食ってたインドのカレーは」
だからロクに飯も食わずに草ばっかり食ってたわ、と物騒なことを言い始めたマスターに私はあわてて、でも独学なんて凄いじゃないですか、と話を変えると、
「インドで食ってたマズいカレーに恨みがあったからさあ、日本に帰ってきてから自分で適当に作ってみたら偶然一発でうまいカレーが出来ちゃって、それからずっとこの作り方」。
それが本当なのか「めんどくさいから」適当に話を端折ってるのか、いつも飄々と人を食ったようなマスターの表情からは真実は読み取れなかった。何種類ものスパイスを気まぐれに目分量で放り込むようにしてカレーの大鍋をかき回す姿は、その長く伸ばして後ろでまとめた白髪とも相まって、まるで魔法使いのようだった。
私も魔法使いになりたい、とその時の私は思ったのだ。スパイスをスーパーで適当に買って帰って、マスターがいつもやるようにそれを適当に放り込みつつ、鶏肉や玉ねぎなどと共に鍋をこねくり回してみた。
作っている間は、なんだかけっこういい匂いがして私は有頂天になりかけたが、いざ味見をしてみると、それはすぐさま失望に変わった。
なんだか変な味がする。
食べて食べられないことはないけど、それを「おいしいカレー」と言うのには相当図太い神経が必要そうだった。
その夜、詫びながら恐る恐る食卓に出したら、当時の同居人は、
「これはこれで」
と言いながら黙々とそれを平らげてくれ、あまつさえ、
「何だか胃腸に良さそうだよね。俺、仁丹とか養命酒とかああいうの結構好きだしさ」
と、お代わりまでして鍋をさらえてくれた。私は少しホッとしたような申し訳ないような気持ちで、彼の寛大さに感謝するばかりだった。
適当に一発でおいしいカレーを作ったとうそぶくマスターが、天才だったのか、それとも誰も見ていないところで地道な努力を積み重ねたのかはわからないけど、少なくとも私が天才でないことだけははっきりと判明した。魔法使いになるには地道にレベルを上げていくしかない。急に謙虚になった私は数日後、本屋さんで分厚いインドカレーの専門書を買ってきた。
足りないスパイスを買い足して、あくまで本に忠実に作ったチキンカレーは抜群においしかった。同居人も今度は回りくどい言い回しは一切無しに、ただただ「おいしい」を連発してくれ、私は得意満面だった。
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