◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第16回

◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第16回
こういうモヤモヤした日は、さっぱりしたものをガツガツ食べるに限る。私は駅前のスーパーに寄った。

第16話
15日目の冷や汁

 絶望的なまでに話が通じない人というのは世の中に一定数存在する。

 日常生活の中でたまさかそういう人物に遭遇したら、とにかく慎重に距離を取って、以後なるべく近付かないことだ。それしかない。しかし運悪くそれが仕事で関わらざるを得ない人、しかも大口のクライアントだったらそうも言っていられない。どんだけ話が通じなくても、なんとかしなければいけないのだ。今日はそんな災厄の日だった。

 

 譬えるなら、

「蝶は昆虫ですよね。昆虫は生物ですよね。だから蝶は生物ですよね」

 というだけの話が通じない。

「いや、僕は蝶が生物だっていうことをどうしても認めるわけにはいかないんだな」

 と、返されてしまう。

 蝶は昆虫ですよね、と確認すると、もちろん、と返ってくる。

 昆虫は生物ですよね、と確認しても、そうだね、と返ってくる。

 じゃあ蝶は生物ってことで進めておきます、と確認すると、そういうわけにはいかないんだよなあ、と言い始めるのだ。

 最初はとにかくイライラした。我慢して何度も同じ話を繰り返すうちに、今度はムカムカと腹が立ってきた。しかしここで諦めたらこれまで1ヶ月以上かけて進めてきた企画はパーだ。

 そのうち怒りの感情すら麻痺してきて、今度はひたすら不思議な気持ちになってきた。「蝶が生物ではない」、という常人には理解し難い論理は、どうも彼の中だけではきちんと成立しているようなのである。別に嫌がらせや意地悪で言っているのでもなさそうなのだ。そういう人がどうして普通に日常生活を送れているのかが不思議になってきた。日常生活どころではない。この人はそこそこの規模の組織で責任ある立場だ。どうやってこれまで社会生活を営んできたのだろう。

 もしかしたらこの人は今、一時的な錯乱状態に陥っているのではないだろうか。だんだんそうとしか思えなくなってきた。煽りたいわけでも怒らせたいわけでも喧嘩を売りたいわけでもなく、

「あの……、大丈夫ですか?」

 と、真顔で訊ねたくなる衝動を必死で抑えるうちに、結局何も進展せずその日は終わった。


稲田俊輔(いなだ・しゅんすけ)

料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に従事。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店、複数の業態の店舗を持つ人気店に。さまざまな角度から食を探求する書き手としても活躍する。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』『飲食店の本当にスゴい人々』(ともに扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分! 本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ! なのに本格インドカレー』(ともに柴田書店)、『おいしいものでできている』(リトルモア)。
Twitter @inadashunsuke

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◎編集者コラム◎ 『ロボット・イン・ザ・ホスピタル』デボラ・インストール 訳/松原葉子