◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第16回

◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第16回
こういうモヤモヤした日は、さっぱりしたものをガツガツ食べるに限る。私は駅前のスーパーに寄った。

 こういうモヤモヤした日は、さっぱりしたものをガツガツ食べるに限る。

 駅前のスーパーに寄り、2枚入りの小ぶりなアジの開きと、キュウリとミョウガ、そして豆腐を買った。そして帰宅して、今日のプレゼン資料をデスクにバシッと叩きつけてから愛しの台所に立つ。

 アジの開きの1枚をラップに包んで、冷凍庫の扉を開けた。一瞬だけ、振りかぶってオーバースローで投げ込みそうになったが、紙はともかく食べ物にあたってはならないと思い直し、そっと丁寧に置いた。

 冷凍しなかった方のアジは、オーブントースターにこれまたそっと置いて焼き始めた。炊飯器にご飯を仕掛けて、キュウリとミョウガを刻み、冷蔵庫から味噌を取り出す。今日は宮崎名物「冷や汁」だ。

 冷や汁は子供の頃から大好物だった。周りの友達に話しても「え。そんな食べ物知らんわ」と言われるし、詳細に説明したらしたで「本当にそれおいしいん?」と訝しがられるだけだったから、いつしか外で冷や汁の話はしなくなった。しかしそれは我が家では、夏に限らず年中定番だったのだ。

 冷や汁には、九州の真っ白な麦味噌以外あり得ない。1週間前、散々迷った末にこの味噌を買っておいたのは大正解だった。その味噌をひとすくい、テフロンの小さなフライパンに押し伸ばして火にかける。つまり焼き味噌。このテクニックはかつて友人のアサコに教えてもらった。東京出身のくせに、宮崎出身者を親に持つ私も知らなかった冷や汁のコツを伝授してくれたアサコ。食いしん坊恐るべし。

 少し焦げ始めて急激に香ばしい香りを放ち始めた味噌をボウルに移し、水で溶き伸ばしていく。水だぜ水。ダシなんて使わない。鎌倉時代にタイムスリップしたかのようなプリミティブ日本料理。ちょっとドキドキするようなロマンがあるではないか。

 そうこうしているうちにアジもこんがりと焼けた。皿にとって少し冷ましたのち、それをほぐし始める。頭をむしり、中骨を尻尾からペリペリと剥がし、ぜいごに爪をかけてゆっくりと皮を剥がす。ようやく現れた身をほぐしつつ、腹骨や小骨を外していく。正直めんどくさい。頭や中骨や皮にもまだ少し身がついているから、それも丁寧にこそげていく。さらにめんどくさい。どうせ食べるのは自分なのだから、多少異物が混入しても構わないはずなのだが、なぜかそれをおろそかにもできない。

 

 子供の頃、晩ごはんが冷や汁の時は、だいたい私がアジをほぐす係だった。魚臭いし手はベトベトするし、その上必ず、飼っていた黒猫のイワシ(という名前だった)が寄ってきて邪魔をした。

 でもそれは決して嫌な仕事ではなかった。冷や汁は大好きだったし、家族のために自分が何かをしてあげるというのは誇らしい気分だったし、最終的にその仕事を達成すると必ず褒めてもらえた。そして実は何より、私はイワシとの攻防戦を楽しんでいたのだ。

 イワシはわりとクールなタイプの猫で、普段は自ら人間に擦り寄ってくることはあまり無かった。しかしアジをほぐす時は別だったのだ。もちろん彼女の目当てはニンゲンではなくあくまでアジだったわけだが、まん丸の目をキラキラ輝かせながら身を寄せてきて、隙あらば爪をニュッと出した白足袋の前脚を繰り出してくる姿は、文句なしに可愛かった。

 私は両肘を駆使してイワシの野望を阻みつつ、時折「しょうがないわねえ」と、お母さんのような口ぶりで、外した頭や中骨を与えた。しかし生まれた時から部屋飼いでひたすら甘やかされて育った彼女は、頭や骨のきわからわずかな身を舐め取るような根性は持ち合わせていなかった。しばらくそれをあくまで玩具として弄んだ後、またぞろもっと食べやすい部分の強奪作戦を開始するのである。

 最終的に私は、ほぐした身をほんのちょっぴり掌にのせて彼女の目の前に差し出す。彼女は特に感謝の意を表明するでもなく、当然の権利とでも言いたげなそぶりで私の掌を舐めた。ザラザラした舌の感触が心地良かった。私は「やっぱ圧倒的に可愛いなこの子は」と満足しつつ、その仕事を終えて成果物を母親に提出しに行くのだった。

 

 ここに猫がいないのは少々残念だが、私は今日も粛々とアジをほぐす。めんどくさいが丁寧にほぐす。まだ少しこわばっていた心も同時にほぐれていく。最後にベトベトとして魚くさい両手の指を行儀悪く舐める。アジの味はおいしい。さすがアジなどという大それた命名をされるだけのことはある。

 

 キュウリ、ミョウガ、アジをボウルで合わせて、そこに焼き味噌を溶いた汁を流し込む。豆腐も手で崩しながらそこに入れ、胡麻を手びねりしながら数回加える。最後に、最終的に薄くなりすぎることのないように用心しながら氷をいくつか入れる。グルグルと掻き回せば完成だ。

 ご飯が炊けるのはもう少し後なので、氷が溶けきらずまだほんの少ししょっぱ目のそれをつまみにすべくビールを開ける。あまり人には見せられない姿だが、汁物をつまみにお酒を飲むのは大好きだ。ビールで汁を流し込む。今日の出来事もいったん水で流す。

 

 もうすぐご飯も炊ける。冷や汁があれば、今日1合炊いたご飯も全部食べられてしまいそうな気がする。そして今の私にはそれを決行する権利がある。とりあえずお腹いっぱい食べて、あの仕事をこれからどうするかは明日また考えよう。

(つづく)
連載第17回


稲田俊輔(いなだ・しゅんすけ)

料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に従事。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店、複数の業態の店舗を持つ人気店に。さまざまな角度から食を探求する書き手としても活躍する。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』『飲食店の本当にスゴい人々』(ともに扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分! 本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ! なのに本格インドカレー』(ともに柴田書店)、『おいしいものでできている』(リトルモア)。
Twitter @inadashunsuke

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◎編集者コラム◎ 『ロボット・イン・ザ・ホスピタル』デボラ・インストール 訳/松原葉子