◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第18回

◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第18回
この部屋の重大な失敗に気づいた私は、仕事の合間にイケアに寄った。

第18話
17日目のナイフとフォーク

 昨晩、私はひとつの重大な失敗に気づいた。この部屋にはナイフもフォークも無い。

 ブリー・ド・モーを箸でちぎりブルーベリージャムと共につまみあげて食べていると、それはもちろんうっとりするほどおいしかっただけに、なんだかチーズに申し訳ないような気もした。これでは居酒屋で厚揚げに生姜をのせて食べてるのとすっかり同じ構図ではないか。束の間のパリジェンヌ気分は半分がた消失した。

 同じ失敗を繰り返してはならぬ。だから仕事の合間にイケアに寄った。ここではシンプルでちゃんとしたナイフやフォークが、びっくりするような安い値段で売られている。それを2セット買った。そのうちあの部屋で誰かをもてなす日も来るかもしれないと思ったからだ。頑丈そうだが野暮ったくはないワイングラスも、揃いで2脚買った。キッチンの上に造り付けの棚の、背伸びしてようやく届く最上段はまだ丸々空いていた。そこにしまっておけば、いつか活躍する日も来るだろう。

 

 かつて新卒で入った会社には、とても面倒見の良い姉御肌の先輩がいた。快活で仕事もできて役職付きの彼女は、私も含め若い女子社員にとって、憧れと頼もしさの中にほんの少しの疎ましさが入り混じる存在だったと思う。

 彼女は私たちをよく、おしゃれなバルやイタリアンレストランに誘ってくれた。あまりそういう場に慣れていない私たちに、彼女はその店のメニューの全体像や特徴をテキパキと平易に説明し、満遍なく皆の意見をヒアリングしつつ、それを過不足なくバランスの良いオーダーに取りまとめてお店のスタッフに告げた。
その際彼女は必ずカトラリーボックスも確認し、その中身がナイフやフォークだけで構成されていたときは、

「あと、お箸くださーい、人数分」

 と、最後に声をかけた。

 確かに、キャロットラペもアヒージョも生ハムも、箸が一番食べやすいような気はした。シーザーサラダもカルパッチョもそうだ。尾頭付きの魚を丸ごと煮込んだアクアパッツァに至っては、むしろそれをナイフとフォークで食べるのは苦行に近い芸当だということにも気付いた。イタリア人はさぞかし難儀なことであろう。

 そういった点において私たちは皆、彼女に感謝していたと思う。そして何より、こんなおしゃれ最先端な場所でも我が庭の如くくつろいで自然体で振る舞える彼女は、やはり少し特別な存在に見えた。これが都会的ということか、と私はすっかり感心したのだ。だけどなぜかそこにはやっぱり、ほんの少しの疎ましさも感じていた。

 

 その疎ましさの正体は、当時の彼女と同年代になった今となってはわかる。それは自分を取り巻く世界をどう構築したいかという価値観の問題なのだ。食べやすいか食べづらいかというのは、結果論でしかない。どんな場所でも自分らしく「自然体」で振る舞う自分でいたいのか、その場所を作り出した人々が表現したい世界観を尊重して身を委ねたいのか、ということだ。

 今の私は、はっきりと後者である。彼女には今でも仕事のことも含めて感謝しているし、尊敬の念も消えてはいない。しかし今の私が時空を超えて当時の彼女と食事を共にしたいかと言われれば、それはたぶんノーだ。


稲田俊輔(いなだ・しゅんすけ)

料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に従事。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店、複数の業態の店舗を持つ人気店に。さまざまな角度から食を探求する書き手としても活躍する。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』『飲食店の本当にスゴい人々』(ともに扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分! 本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ! なのに本格インドカレー』(ともに柴田書店)、『おいしいものでできている』(リトルモア)。近著に『チキンカレーultimate21+の攻略法』(講談社)、『カレー、スープ、煮込み。うまさ格上げ おうちごはん革命 スパイス&ハーブだけで、プロの味に大変身! 。』(アスコム)。
Twitter @inadashunsuke

週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.54 うなぎBOOKS 本間 悠さん
◎編集者コラム◎ 『聖週間』アンドレアス・フェーア 訳/酒寄進一