◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第18回

◇ショートストーリー◇稲田俊輔「キッチンが呼んでる!」連載第18回
この部屋の重大な失敗に気づいた私は、仕事の合間にイケアに寄った。

 買って帰ってきたばかりのナイフとフォークのうち1セットを取り出し、さっと洗って水気を拭いた。

 ワイングラスのうちの1脚も洗って水切り籠に伏せ、残りの1脚と昨日まで使っていた(頑丈かつ野暮ったい)グラスは、背伸びして棚の最上段にしまいこんだ。

 そして昨日から赤ワインと香味野菜に漬け込んでおいた鶏の骨付き肉を取り出し、水気を切って皮目を下にフライパンにのせ、コンロのスイッチを入れる。

 しばらくするとパチパチと音がし始め、皮が焼ける香ばしい匂いと、ワインが飲み物から料理に変化する時の、いかにもご馳走めいた匂いが漂い始める。そこにバターを少し足してフライパンを軽くゆする。音はさらに賑やかになり、ご馳走の匂いはその華やかさを増していく。

 バターが茶色味を帯び、香ばしい香りが焦げる寸前の警鐘を鳴らし始めたら、ようやく肉をひっくり返す。皮は思惑通りに全体がこんがりと黄金色に焼けており、そこから続く肉の部分は紫色からややダークブラウンに変化しつつある。肉の面から新たな水分を得た焼き脂は、一度盛大にジュウジュウと音を立て、しばらくするとジクジクと落ち着く。そのタイミングで、肉を鍋に移す。

 鍋の上にザルを置いて、香味野菜を濾しながら漬け込んであったワインを注ぎ切る。濾した野菜は肉を焼いたフライパンにそのまま移して炒める。野菜が少し色づき始めるにつれ、ご馳走の匂いはさらに説得力を増していく。更に炒めながらフライパンのこびりつきもすっかり野菜に絡めとって、こちらも鍋に移す。既にフライパンは洗ったように綺麗な状態だが、鍋からワインをひとすくいだけフライパンに移し、ごく微かな脂と焼き汁の残滓を回収して戻した。まあこれはおまじないのようなものだ。あとはそれをコトコトと弱火で小1時間煮込むだけ。部屋中に充満する圧倒的なご馳走の香りに包まれながら、私はデスクに場所を移し、ビールを開けて遠慮がちに舐めながら少しだけ仕事の続きに戻った。

 

 一区切り付けてキッチンに戻ると、鍋の中はすっかり料理に仕上がっていた。鶏肉の赤ワイン煮、おっと、パリジェンヌ的にはコック・オ・ヴァンである。

 鶏肉を取り出して、残った煮汁を濾して煮詰め、バターを溶かし込んでソースに仕上げればレストラン風の優美な一皿に仕上がるのだが、今日はあえてそうしない。ほろほろの肉もくたくたの野菜も、そのままサラサラの煮汁と一緒くたに深皿に移した。シェフではないパリジェンヌはきっとそうするのだ。知らんけど。
半分残っていた宵越しのバゲットは、今日はトースターでこんがりと焼いた。やはり半分残っていたクレソンには、今日は塩だけを軽く振った。結局昨日はほとんど手をつけなかった4種のチーズも既に常温に戻してある。昨夜、鉄の意志で1杯分だけ残しておいたワインを新しいグラスに注ぎ切り、飲みかけのビールと共に脇に置いた。

 もちろん、ピカピカのナイフとフォークはきちんと平行に揃えてテーブルの右端に置く。抜かりなし。

 

 私は私の世界を完璧に作り上げ、今からそれに身を委ねる。ここにもし他の誰かがいて、「お箸ちょうだい」と言われたとしても、断固拒否するだろう。

 今しがたせっかく綺麗に並べたばかりのナイフとフォークをそそくさと手に取って、鶏肉の骨のきわから、しっとりかつほろりとした肉を引き剥がして頬張る。すぐさま後を追ったビールのぬるさが、これまたなんとなくパリジェンヌっぽい気もして、トレ・ビアン。

(つづく)
連載第19回


稲田俊輔(いなだ・しゅんすけ)

料理人・飲食店プロデューサー。鹿児島県生まれ。京都大学卒業後、飲料メーカー勤務を経て円相フードサービスの設立に参加。和食、ビストロ、インド料理など、幅広いジャンルの飲食店の展開に従事。2011年、東京駅八重洲地下街に南インド料理店「エリックサウス」を開店、複数の業態の店舗を持つ人気店に。さまざまな角度から食を探求する書き手としても活躍する。著書に『人気飲食チェーンの本当のスゴさがわかる本』『飲食店の本当にスゴい人々』(ともに扶桑社新書)、『南インド料理店総料理長が教える だいたい15分! 本格インドカレー』『だいたい1ステップか2ステップ! なのに本格インドカレー』(ともに柴田書店)、『おいしいものでできている』(リトルモア)。近著に『チキンカレーultimate21+の攻略法』(講談社)、『カレー、スープ、煮込み。うまさ格上げ おうちごはん革命 スパイス&ハーブだけで、プロの味に大変身! 。』(アスコム)。
Twitter @inadashunsuke

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◎編集者コラム◎ 『聖週間』アンドレアス・フェーア 訳/酒寄進一