◇長編小説◇白石一文「道」連載第3回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第3回
功一郎は、仕事先からそのまま足を伸ばして、博多へ向かっていた。ある目的のために。

「道」連載一覧


 
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 午前七時四十一分小倉発の新幹線さくら四〇一号に乗った。博多到着は七時五十六分。普通電車なら一時間以上かかる小倉―博多間が新幹線ならわずか十五分。この博多へのアクセスの良さがいまや北九州にとって仇(あだ)となっているのかもしれない。

 朝の博多駅は通勤通学の人々でごった返していた。

二月七日に十都府県で一ヵ月間延長された緊急事態宣言は、その後、感染者数の減少傾向が明瞭になってきた大阪や兵庫、福岡など六府県では、今月いっぱいでの前倒し解除が予定されている。

 だとすれば残りあと五日間。

 それにしても、この混雑ぶりを見ると、宣言解除など行って大丈夫だろうかと不安になってくる。目の前の通勤風景には、人々のマスク姿を除けばすでにして〝緊急事態〟の雰囲気などほとんど感じ取れない。七割のテレワーク実施を政府は強く求めているが、企業も人もどこ吹く風のようだ。

 JR博多駅から市営地下鉄を使って「箱崎宮前(はこざきみやまえ)」まで行くつもりだったが、タクシーを使うことに切り替える。

 この分だと地下鉄の車両は満員状態だろう。

 日頃、自家用車で職場まで通っている功一郎は、コロナの前から滅多に電車には乗らなかった。そのせいもあって満員電車には人一倍の恐怖心があるのだ。

 まだタクシーの方が安全な気がした。

 博多口の改札を出て、駅前のタクシー乗り場へと向かった。

 さすがにタクシー待ちの行列はなかった。すぐに乗車して、

「箱崎の県立図書館までお願いします」

 と運転手に告げる。

 車窓から見上げる博多の空は晴れ上がっている。温暖な九州は好天続きと思っている人が多いが、日本海側に面した博多は一年を通してすっきり晴れる日は少ない。東京のような雲一つない日本晴れは滅多に拝めない土地柄なのだ。

 その博多の空が今朝は日本晴れだった。

「いい天気ですね」

 走り出したところで運転手に話しかけると、

「そげんですね。二月にこげん晴れるのはめずらしかですたい」

 という言葉が返ってくる。

 前回、博多に来たのはちょうど十年前。美雨が中学に上がる前の年だった。美雨と渚に生まれ故郷を見せたくて秋口に休暇を作って連れてきたのだ。

 まだ母の美佐江は静岡で元気にしていたので、唐沢家の墓は福岡に置いたままだった。最初に墓参りをして、それから三日間をかけて福岡の名所をみんなで巡ったのである。

 その墓も母が亡くなったあと、都内の納骨堂に遺骨をすべて移し替えてしまった。福岡時代はずっと借家暮らしだったので家産のたぐいもなく、もとから付き合いのあった親類縁者も皆無だった。

 そういう意味では、功一郎はとっくに故郷喪失者なのだが、それでもこうして生まれ故郷の風景を眺め、懐かしい空気を胸におさめると心がほっと一息つくのが分かる。

 福岡県立図書館は博多の八幡様として名高い筥崎宮(はこざきぐう)のすぐ近くにある。

 図書館から二分も歩けば二之鳥居で、そこから参道を二百メートルほど進めば、もう「敵国降伏」の扁額(へんがく)で知られる筥崎宮の楼門だった。

 箱崎の団地で育ち、箱崎小学校に通った功一郎にとって、立派な筥崎宮は馴染みの鎮守様であり、友だちとの学校帰りの遊び場でもあった。

 二十分ほどで県立図書館の正門前に着く。時刻は午前八時半を過ぎたところだ。

 タクシーを降りて、図書館の古めかしいが荘重な建物を見上げる。九時開館だから、まだ入り口は閉まっていた。

 この建物にも長年世話になった思い出がある。

 高校、大学の受験勉強はもっぱらここの学習室で行っていたのだ。

 だが、今朝の本当の目的地は県立図書館ではなかった。

 図書館を正面に見て、道路を挟んだ左側は功一郎が六年間通った箱崎小学校、背中には筥崎宮の参道がある。そして図書館のやはり道路を挟んだ右側には十五階建ての大きなマンションが建っていた。

 功一郎はその右側のマンションのエントランスへと歩を進めた。

 車寄せがしつらえられ巨大なルーフの付いた豪華な玄関には、「大日鉄グランドホークス箱崎」というエントランスサインが大理石の壁に埋め込まれている。

 グーグルマップのストリートビューで確認していた通りの光景だった。

 かつてこの場所にあった長倉彦八郎(ながくらひこはちろう)の豪邸はいつの間にか姿を消していた。

 あれを試してみると決めた後、功一郎は四十一年前にあれが起きた長倉邸がいまはどうなっているのか初めて調べてみた。いの一番にグーグルマップを開き、ストリートビューで県立図書館の右隣を見てびっくりした。左に隣接する箱崎小学校と同じくらいの敷地を誇ったあの長倉邸が影も形もなくなり、代わりに大日本製鉄の経営するマンションがそびえ立っていたのだ。


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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』。

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