◇長編小説◇白石一文「道」連載第5回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第5回
高校受験が不首尾に終わったことを、功一郎は母に告げられないままでいた。信じられないことが起こっていた。

「道」連載一覧


 
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「開始」

 の声で我に返った。

 周囲で問題用紙を一斉に表に返す音がする。

 功一郎は、そのザッザッという音を聞きながら啞然とした思いで前後左右をキョロキョロと見回す。

 自分の身に一体何が起こっているのか分からない。

 教室全体に張り詰めた空気がみなぎり、すぐに受験生たちが鉛筆を走らせる音が聞こえ始めた。それを耳にして、功一郎もほとんど反射的に裏向きの問題用紙をひっくり返し、「国語」と記された一ページ目をめくる。

 

一.次の文章を読んで、後の各問に答えよ。
 われわれは先人の精神的遺産である文化に囲まれ、それを自分のものにしながら成長している。しかし、このけんらんと花咲く文化のなかに、ただ身を浸してさえいれば、それでいつとなく文化が自分のものになっていくものでないことは、いうまでもないことである。
 なるほど、われわれのまわりには文化があふれている。本屋に行けば、新刊書がうず高くまれているし、テレビのチャンネルをまわせば、各種の芸能が目の前で展開する。この文化の過剰のなかにあって、われわれのまずなすべきことは何か。それは選択するということであろう。選択するには、選びとる自分というものがなければならない。そこに、どうしても自分の(   )が要求されるのである。──

問一 本文中の まれて あんいに について、傍線をつけたひらがなの部分に適切な漢字をあて、楷書でそれぞれの答の欄に書き入れよ。──

 

 二日前に目にしたばかりの試験問題が並んでいた。

 ――一体どうなっているんだ……。

 彼はもう一度、周囲を見回し、一昨日とまるきり同じ光景であることを確認する。廊下側の席や窓側の席には箱崎中の仲間たちの姿が見え、それもあの日の顔ぶれで間違いなかった。

 窓側の席には、十五分休憩のときに「数学」の三問目のミスを指摘してくれた同じ三年四組の辻野太郎の姿もあった。

 ――お腹は?

 ようやく思い当たって功一郎は下腹に手を当てる。

 何ともない。

 二日前は、問題用紙が配付された直後に差し込むような痛みが起きたのだが、すでに数分が過ぎたいまも腹具合に異常はなかった。

 それはそうだろう。ついさきほどまで自分は長倉邸の「離れ」にいて、人麻呂の書斎で不思議な絵を眺めていたのだから。

 今日は昼過ぎまで寝て、何も食べずに自転車で団地を飛び出し、平和台球場から中洲の映画館へと回って映画を観た。長倉邸を訪ねて「離れ」に顔を出したのは午後五時過ぎで、書斎で人麻呂としばらく話をした。そしてそのあと、一人であの絵の前に立ったのだ。

 それがどうして、自分はいま二日前の受験会場にいるのか?

 功一郎は腕時計で時間を確かめる。日付は三月十二日水曜日。時刻は九時四十五分。「国語」の試験開始時間を五分ほど過ぎたところだった。

 あの絵を眺めているうちに奇妙な現象に見舞われた。

 人麻呂によれば、それはニコラ・ド・スタールという画家が描いた「道」という題名の油彩だった。

 絵は、白と黒だけで構成されていた。上半分は青みがかった白で、下半分には左から黒、白、そしてバラ色がかった白の三角形が描かれ、画面の中央で三つの三角形が結びつこうとしている。中央の真っ白な三角形がおそらくは「道」であり、その道の先には黒い三本の木のようなものが立っていた。

 じっくりと眺めているうちに、真ん中の白い三角形が遠くへと真っ直ぐに延びる道に見えてくる。左の黒は左側の景色、右のバラ色がかった白は右側の景色で、中央に立つ三本の黒いかたまりは樹木のようでもあり、建物のようでもあり、もしかしたらこの道を進む者を待ち構える人物なのかもしれなかった。

 どれも黒一色だが、だからといって禍々しい気配はない。何かしら確固とした存在としてそれらは道の行く手に配置されているのだ。

 書斎でその大きな絵を見るのは初めてだった。部屋に入ってすぐに気づいたところ、

「これは凄い絵なんだよ」

 一緒に書斎に入った人麻呂が、絵のそばに近づいて話を振ってきたのだ。

「凄い絵?」

 縦が六十センチ、横が一メートル近くはありそうなその絵は、なるほどこの書斎に掛かっているいくつかの絵画やポスターと比べても格段に大きかった。

「一昨日、ようやくフランスから届いたんだ」

 人麻呂は少し自慢げな口調で言う。

「凄いだろ?」

 念を押されて、功一郎はちょっと首を傾げる。

「何が凄いんですか?」

 率直に訊いてみた。


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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』『我が産声を聞きに』。

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