◇長編小説◇白石一文「道」連載第6回

第二部
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「本部長、そろそろ時間ですよ」
耳元に響く声で、功一郎(こういちろう)は我に返った。
「ああ……」
と反射的に返したものの、頭がぼんやりしていて目の前に立っている人間もかすんで見える。
長い時間、深く眠っていたところをいきなり起こされたような感じだった。何か大事な夢を見ていた気がする。
「本部長、あと五分です」
ようやく早見卓馬(はやみたくま)の姿がくっきりした。その顔を見た瞬間、
──うまくいったのだ……。
内心で安堵の吐息をもらす。
腕時計の針を読むと時刻は、午後一時五十五分。文字盤の日付は「FRI28」。卓上カレンダーは2018年9月のページになっている。
あの日の会議は二時から始まったのだった。
──なるほどここからやり直すのか……。
前回の経験に鑑み、ぎりぎりのタイミングになる可能性は充分に予測していた。
最大の危惧は、美雨(みう)の事故を未然に防ぐことが不可能な場所や時間帯に舞い戻ることだったのだ。
渚(なぎさ)からの一報が入ったのは、これから始まる会議の最中だった。まずは着信があり、出られずにいるとすぐにラインが来た。
美雨が事故に遭って心肺停止の状態で病院に担ぎ込まれた、という文面だった。動転して会議室を飛び出し、震える声で電話すると渚はタクシーを拾って病院に向かっているところだった。
あの一本のラインを境にして、功一郎の人生は一気に暗転していったのだ。
「ちょっとトイレに寄るから、悪いけど先に八階に行っていてくれ」
席を立ちながら、さりげない口調で功一郎は言う。
今日は三ヵ月に一度の「安心品質会議」の日だった。
この竹橋(たけばし)本社の生産、商品開発、研究開発、販売、マーケティング、品質管理など各部門の部門長、部課長クラスが一堂に会する最重要の会議で、社長以下、主だった役員も全員顔を揃える。会場も役員フロアの大会議室と決まっていた。
「分かりました」
功一郎が会議に遅れることは滅多にないので、お客様相談室長の早見は少し怪訝そうな表情になったが、今日は自分が会議の議案提出者を仰せつかっているから遅刻するわけにもいかない。一礼すると背を向け、そそくさとエレベーターホールへと向かった。
功一郎が本部長を務める品質管理本部は七階、役員フロアは一つ上の八階だ。
もう一度時刻を確かめ、功一郎は椅子の背に掛けていた上着を羽織ると足下のカバンを手にして品質管理本部を出る。
エレベーターホールで押したのはむろん下りボタンだった。
今日は「安心品質会議」などに出ている場合ではなかった。欠席の旨は、電車に乗ったところで早見にメールをすればいいだろう。理由は「腹具合がおかしいので急いで病院に行ってくる」とでもしておこう。
会議は三時間近く続くのが通例で、あの日、渚から電話が来たのは午後四時過ぎだった。美雨が事故に巻き込まれたのは午後二時五十分ちょうど。田園都市線の三軒茶屋(さんげんぢゃや)駅を出て、弦巻(つるまき)方向に世田谷通りを進んですぐの場所が事故現場だった。美雨は三時に待ち合わせた大学のクラスメートと会うために三軒茶屋へと出かけたのだ。
夕方、搬送先の東邦(とうほう)大学医療センターの霊安室で美雨と対面した。
顔に一切の傷はなく、眠っているようにしか見えなかった。幾ら声を掛けても目を覚まさないのが不思議で、渚は娘の肩を何度も揺すって起こそうとした。最後は功一郎がそんな妻を娘から引き離すしかなかったのだ。
フジノミヤ食品本社から地下鉄東西線「竹橋」駅までは歩いて五分ほど。
午後二時十分発の東西線に乗り「竹橋」からひとつ隣の「九段下(くだんした)」まで行く。そこで二時十五分発の半蔵門線「中央林間」行きの電車に乗り換えた。
NAVITIMEによれば「三軒茶屋」到着は二時三十二分。
美雨はおそらくこの電車より遅れて着く電車で三軒茶屋駅に降り立つのだろう。事故現場の手前で待っていれば彼女をつかまえることができる。そのために与えられた時間は、二十分足らず。
彼女を見つけることができなければ、愛娘の事故死を直接目撃することになる。
最悪の事態だ。
電車の中は空(す)いていた。当然の話だが、誰もマスクをしていない。中国武漢(ぶかん)市の海鮮卸売市場で謎の感染症が流行しだすのはまだ一年以上も先のことだった。それでもマスクのない車内風景に著しい違和感を覚えてしまう。
功一郎はこれから先のことだけを考える。
「三軒茶屋」で降りてどう行動すべきか?
上着のポケットに入っていた昔のアイフォーンで三軒茶屋周辺の地図を表示し、美雨救出の段取りを頭の中でシミュレートする。
事故現場となった栄光(えいこう)銀行三軒茶屋支店は、田園都市線の出入り口から世田谷通りを百メートルほど下った三叉路にある。
美雨はその交差点で信号待ちをしているときに、いきなり突っ込んできたミニバンに撥(は)ね飛ばされたのだ。
美雨を撥ねた車はそのまま支店のドアやガラス窓を破って店内に乗り上げ、停止した。窓口が閉まる直前の出来事で、中には数人の客が残っていたが、奇跡的に彼らや行員たちに怪我人は出なかった。
銀行のエントランス前にいた美雨一人が犠牲になったのである。
ミニバンの運転手は七十代の男性で、車から引きずり出されたときにはすでに事切れていた。事故後の警察の検証作業で、彼がブレーキも踏まずに交差点に突入したのは、その直前に心臓発作を起こしたからだろうと推定された。男性は運転中に意識を失い、おそらくは死亡した状態で百数十メートルの距離を走行し、そのまま美雨のいる交差点へと突っ込んだのである。
地図をチェックしながら、こんなことなら、せめて一度でも事故現場に足を運んでいればよかったと後悔する。
渚は何度か出向いて花も手向けたようだが、そういう詳しい経緯も含めて当時の功一郎はすべての情報をシャットアウトしたのだった。
美雨が死んだという事実の前で、彼の思考は完全に停止した。美雨が一体どこでどんなふうに死んだのかを確かめたいとはまったく思わなかった。事故から一ヵ月以上、新聞もテレビも一切見なかったし、会社での勤務もただ条件反射的にこなすだけで何も頭に入ってきていなかった。
品質管理本部の部下たちのサポートがなければ、彼はフジノミヤ食品での仕事も品質管理の専門家としての信用も丸ごと失っていたに違いない。
凍りついていた思考が復旧したのは、皮肉なことに事故から二ヵ月ほどが過ぎて、妻の渚の様子が明らかにおかしくなってきてからだったのだ。
電車が「永田町」駅を出たところで腕時計の針を読む。
午後二時二十分。