◇長編小説◇白石一文「道」連載第7回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第7回
あれを使って、2018928日午後155分の世界に戻った功一郎は、三軒茶屋で起こった娘・美雨の事故死を回避する。

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 六時過ぎに起き出し、ベッドから降りて軽い体操を行っていると看護師が検温にやってくる。熱は平熱、血圧も異常なし。身体を動かしながら、どこかしら身軽な感じがして、最初は爽快な気分のせいだろうと思っていたが、血圧が普段よりずいぶんと低いのを知り、気分のためではなく本当に身体が軽くなったからだと気づいたのだった。

 確かに、あと一ヵ月余りで五十七歳になる肉体から五十四歳と六ヵ月の肉体へと突然若返ったのだ。体重も当時の方が軽かったし、体力だってあった。

 時間の矢は同じ方向にしか飛ばないため、我々は肉体の老化は実感できても、その逆を感覚することは絶対にできない。

 その誰にも不可能なことをいま自分は体験し、味わっているのだと功一郎は思う。

 わずか二年半でも、こうして若返ってみると、分厚いコートや手袋、長靴下、重い帽子を全部脱ぎ捨てたような〝軽やかさ〟を感じる。

 ──若さというのは凄いものだな……。

 初めてそのことをまざまざと理解できたような気がした。

 担当医の診察は九時過ぎで、病室での簡単な問診だけだった。

「問題なさそうですね。本日退院でOKですよ」

 若い医師はあっさりそう言って出ていった。

 早速、スマホで渚に、

「無事に退院許可が下りました。待っています」

 とラインを送る。

 ミニバンを避けて地面に倒れ込んだときの衝撃で上着のポケットにあったスマホが外に飛び出したらしい。

「そばに落っこちてたけど、画面も割れてないし大丈夫みたい」

 と言って、昨日の帰り際に美雨が返してくれたのだった。

 確かに朝の光でチェックしてもどこにも傷らしきものはない。

 美雨が亡くなったあとアイフォーンXSに買い換えた。いま手の中にあるのはアイフォーン7だ。動作はさすがにXSより鈍いが、ラインのやりとりなどはまったく問題ない。

 ラインを開くと、ここ数日間の渚とのトークがすぐに表示される。

 鬱が進行してからは渚とラインをすることはなくなった。渚のスマホも一緒にXSにしたのだが、それを彼女が使うことはほとんどなかったのだ。

 そして、何よりの喜びは、美雨とのライントークが復活していることだ。

 美雨が高校生の頃からIDの交換はしていた。XSに買い換えたときも彼女とのトーク履歴は残したが、むろん、二度とやりとりすることは叶わなかった。

 それが昨夜、美雨から新しいラインメッセージが届いたのだ。

「今日はびっくりしたね。でも、無事でよかった。明日、迎えに行きます。おやすみなさい」

 という文章を、功一郎はすぐにスクショして写真フォルダーに保存した。

 今朝、起きてからもそのスクショを何度も何度も見直している。

 ──まるで夢を見ているようだ。

 見直すたびに同じことを思う。

 今日は、九月二十九日土曜日。本当なら美雨の遺体を葬儀場に移し、今夜の仮通夜、明日の本通夜、そして十月一日月曜日の葬儀と慌ただしく時を過ごさねばならなかった。あの三日間、功一郎も渚も一睡もできなかった。葬儀の日は、渚は目が腫れてほとんど視力を失っていたし、功一郎も霊柩(れいきゅう)車の前で会葬御礼を喋っているとき自分がどんな言葉を口にしているのかまったく聞き取れなかった。

 通夜、葬儀も早見をはじめとした会社の面々がサポートしてくれなかったらきっと無事に執り行うことができなかっただろう。

 渚には碧がずっと付き添ってくれていた。

 美雨の訃報を聞いて駆けつけた碧は、それまでの碧とはまるで別人のようだった。

 涙をこぼしながらも姉にかいがいしく接し、渚の方も彼女に何もかも委ねている気配だった。

 そんな姉妹の姿に、血のつながりの重さと深さを功一郎は改めて思い知らされたのだった。

 昨日とは違って、今日は曇天だった。テレビの天気予報によると一時的に雨も降るらしい。

 あの日もそうだったろうか?

 思い出そうとするがよく憶えていなかった。ただ、葬儀の日はまるで真夏を思わせるような猛暑だった気がする。

 前回の試験問題の経験から、こうして舞い戻ってきた世界にも何らかの小さな変化が起きているのではないかと功一郎は考えていた。

 昨日の事故は時間も場所も同じように起きたが、それだって秒単位、ミリ単位で観測してみればほんの少しずつ〝前回〟とは異なっていたのかもしれない。昨日はかつて美雨が立っていた場所に金髪の若い女性がやってきた。〝前回〟あの女性はどこに立っていたのだろうか?

 美雨のすぐ近くにいて難を逃れたのかもしれないし、そうではなく、もとから事故現場に彼女の姿はなかったのかもしれない。

 そんなふうにして、「数学」や「英語」の問題が一問ずつ異なっていたように昨日の現場も微妙に〝前回〟とは違っていたかもしれなかった。

 だが、それを検証するすべが功一郎にはない。

 これからの二年五ヵ月のあいだ、功一郎の記憶の中の現実と、本当に起こる現実とには微妙な食い違いが生じてくる可能性が高い。そのなかには功一郎が明らかに違うと気づく出来事もあるだろうし、最後まで気づけないものもあるのだろう。

 ──どちらにしろ、なるべくこの記憶からはみ出さないようにしなくては……。

 功一郎はそう思っていた。

 昨日、三軒茶屋の事故現場にあの若い金髪の女性がいきなり出現したように、記憶の中の未来をいたずらに動かすと、思わぬ事態が出来(しゅったい)してこないとも限らない。

 実際、歩いてくる美雨を引き留めただけで何もしなければ、恐らく金髪の女性は美雨の身代わりとなってミニバンに撥ね飛ばされてしまっていたのだ。

 功一郎がとっさに取った行動は、何とかして記憶と現実とを違えないようにするための苦肉の策だった。

 事故によって犠牲になったのは美雨一人で、栄光銀行三軒茶屋支店前や支店内にいた人たちは無傷だった──という自分の記憶を成就させるために、彼は交差点まで急いで戻り、金髪の女性を間一髪で輪禍から救ったのである。

 十時少し前に美雨たちが迎えに来てくれた。

 今日はほどいている長い髪やブラウスの上に羽織ったカーディガンの肩先がわずかに濡れている。

「車を降りたら急に降ってきちゃった」

 美雨がバッグからハンカチを取り出して丁寧に雨滴を拭っている。

「どっちが運転したの?」

「もちろんおかあさん」

 彼女はこの夏休みに免許を取ったばかりのはずだった。

「帰りは私が運転したかったのにな」

 美雨は、病室の窓の向こうを恨めしげな表情で見ていた。あいにく、雨は本降りになってしまったようだった。こんな雨の中を運転するのはさすがに怖いのだろう。

 渚の方はカバンに詰めてきた功一郎の着替えを取り出し、功一郎が昨日着ていたスーツやワイシャツをきれいに畳み、ビニール袋に入れてカバンにしまっている。お気に入りのポールスチュアートは転倒したせいでズボンも上着も汚れてしまっていた。

 昨夜、スーツを早くクリーニングに出して欲しいと頼むと、

「慌てて家を飛び出したから、着替えを用意してこなかったの。ごめんなさい」

 渚はそう言ってそれらを持ち帰るのをためらった。万が一、夜中に大地震でも起きて夫が困るのを危惧したのだろう。

「私、ちょっとこれをナースステーションに届けてご挨拶してくるね」

 着替え一式を功一郎に手渡すと、用意してきた菓子折の紙袋を提げて渚は部屋を出て行った。


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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

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