◇長編小説◇白石一文「道」連載第8回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第8回
美雨、渚が普通に暮らしている世界を享受する功一郎だったが、美雨が三軒茶屋で見せた翳りのある表情が気にかかっていた。

「道」連載一覧


 
     3

 起こされたのは深夜だった。

「ねえ、功一郎さん、起きて」

 肩を揺さぶられて目を開けるとパジャマ姿の渚がベッドの脇に立っていた。いつの間にか部屋の明かりが灯っている。

「美雨の様子がおかしいの」

 一瞬で意識がクリアになる。身体を起こし、サイドテーブルの上に置かれた目覚まし時計の針を読む。

 午前二時十五分。日付は変わり、すでに土曜日だった。

「おかしいって?」

「お腹が痛いみたい」

「いつから?」

「さっきお手洗いに立ったら、部屋から出てきて呼び止められたの。ずっと我慢していたらしくて」

「ずっとって?」

「晩御飯のあとから」

 夕食は一緒にとったが、美雨はあまり食べずに自室に行ってしまった。たまにそういうこともあるので気にはしていなかった。

「また急性腸炎かもしれないな。下痢とか吐き気は?」

 美雨はむかしからお腹が弱く、幼少期はよく細菌性の腸炎になって夜中に救急外来に駆け込んだものだ。

「そっちじゃないのよ」

 渚が困ったような顔になる。

「そっちじゃない?」

「出血してるの」

「出血?」

「生理中らしいんだけど、こんなにお腹が痛いのは初めてだって」

 女性のこととなると、功一郎には判断の仕様がない。

「心配だから病院に連れて行きたいの。いいでしょう?」

「もちろんだよ。じゃあ、僕もすぐに着替える」

 そう言って功一郎はベッドから降りた。

 功一郎が身支度をしている間に、渚が隣町の新砂(しんすな)にある啓明林大学江東医療センターに電話をする。美雨が幼稚園の頃にできた病院で、これまでも夜間救急で何度か世話になっていた。

「すぐにいらして下さい、って」

 救急の看護師とやりとりしていた渚が電話を切って、そう言う。彼女が着替えを始めたので寝室を出て美雨の様子を見に行った。

 美雨はすでに用意を済ませてリビングのソファに座っている。

「大丈夫か?」

 と訊くと、

「うん」

 小さく頷く。

 昔から具合が悪くなるとほとんど喋らなくなる子だった。

 渚を待ってすぐに家を出た。病院までは車で五分足らず。

 救急の受付で手続きを済ませて待合スペースに行く。長椅子が並ぶがらんとした空間に飛び飛びに患者が座っている。カップルが一組、子供と両親が一組、それに美雨くらいの若い女性が一人。

 誰もマスクをしていないのが、功一郎には相変わらず不思議に思える。

 時刻は午前二時半を回ったところだった。

 五分ほどで名前が呼ばれ、美雨一人で診察室に入っていく。車に乗るときは顔色も悪く、お腹のあたりに手をやってとぼとぼと歩いていたが、病院に着くと足取りも少ししっかりしていた。

 それほど心配はないのかな、と功一郎は思う。

 いましがた渚に起こされて、「美雨の様子がおかしいの」と言われたときはぞっとした。あの事故からほぼ一ヵ月。またぞろ娘の生死に関わる事態が出来したのかと怖くなったのだ。

 ところが、いまは、さきほどとは真逆に思えてくる。

 ──美雨は、新しい人生を得たばかりなのだ。それが一ヵ月かそこらで生命を脅かされるはずもあるまい。


「道」連載一覧

白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

葉真中 顕 ◈ 作家のおすすめどんでん返し 14 (最終回)
◎編集者コラム◎ 『きみはだれかのどうでもいい人』伊藤朱里