◇長編小説◇白石一文「道」連載第9回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第9回
美雨の体調急変は、妊娠中絶手術を受けたことに端を発していた。相手はバイト先の15歳歳上の男性。功一郎は混乱する

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 二〇一八年十二月二十八日金曜日。

 例年、フジノミヤ食品の仕事納めは官庁のそれに準じている。今年も出社は今日で最後だった。仕事始めは一月四日金曜日。これも官庁の御用始めと同じだ。

 正月休みは正味六日間。ただ、大半の社員は四日を有給にして九日間の長い休暇を作っていた。

 あの年の年末年始がどんなふうだったか、功一郎にはほとんど記憶がない。

 大晦日に渚が薬を大量に飲んで自殺を図り、年が明けてすぐに異変に気づいて救急車を要請した。救急車の中から碧の携帯に電話したのは憶えている。

 渚が一命を取り留め、退院するまでの一週間、毎日病院に通った。

 始業日の四日は、果たして会社に顔を出したのだろうか? それとも見送って月曜日から出たのか?

 退院には碧も付き添ってくれ、それ以降ほとんど毎日、東陽町のマンションに泊まり込んでくれたのだった。

 今年はあのときとはまったく事情が違った。

 三時を回ると、社員たちが一斉に机上のパソコンを閉じて席を立つ。

 仕事納めの日は、午後三時で終業と決まっていて、そこからは各部署ごとの忘年会が始まるのだ。

 各々の会議室や作業台には出前の寿司やピザが届けられ、それとは別に会社の工場から朝のうちに大量に配達された豪華なオードブルが大きなテーブルに所狭しと並べられる。酒は、この日のために取引先の業者から調達した日本酒、焼酎、ビール、ワイン、シャンパン、ウイスキーがずらりと揃っていた。

 目の前で部下たちがいそいそと宴会の準備をしているのを功一郎は眺める。

 毎年見てきた光景だったが、功一郎にとってはすこぶる懐かしい光景でもある。

〝前の世界〟では、来春我孫子工場に異動してしまい、以降は本社での忘年会に顔を出すことはなくなった。しかもこの年の最後の忘年会は、恐らく参加せずに三時の終業と同時に自分は会社を出たと思われる。

 だとすると、実質、四年ぶりに接する光景でもあった。

 十五分ほどで支度がととのい、若い女子社員が功一郎を呼びにくる。

 品質管理本部の広い第一会議室に入ると、いつものように三十人ほどの部下たちが顔を揃えて彼を待っていた。全員の手に酒の注がれた紙コップが握られている。

 いまから退社時刻の午後五時半までみんなでわいわいと盛り上がり、そのあとは夜の町へと繰り出す者、家路を急ぐ者とさまざまに分かれていくのだ。

 部下の一人から日本酒で満たされた紙コップを受け取ったところで、

「じゃあ、本部長の方から一言お願いします」

 これも例年通り、お客様相談室長の早見が口火を切った。

 こういう場では早見が司会役と決まっている。

 美雨が亡くなったとき誰より親身になってくれたのもこの早見だった。彼や品質管理本部の面々がいなければ美雨をちゃんと葬送することも不可能だったろうし、いまの仕事を続けていくこともきっとできなかったに違いない。

 功一郎が役員昇進を辞退し、我孫子工場に異動すると知ったときも早見や吉葉を始めここにいるみんなが残念がってくれた。いまから三ヵ月後、功一郎は後ろ髪を引かれる思いでこの場所を去ったのである。

 一人一人の笑顔を見つめながら、彼は部員たちに向けて深い感謝の意を捧げる。

「みなさん、今年も本当にご苦労様でした。そして本当にありがとうございました。この六月に十五年ぶりに食品衛生法の大改正が行われ、いよいよ日本でもHACCP(ハサップ)の制度化や食品リコールの報告義務化などが実施される運びとなりました。来年からは、二年後、三年後の各制度の施行に向けて、我がフジノミヤ食品でもさまざまな取り組みを本格化させていかなくてはなりません。正直なところ今年以上に忙しくなります。みなさんのますますの活躍を本部長として期待し、またお願い申し上げます。さらに来年は新しい天皇が即位し、いよいよ令和の新時代を迎えます。新しい酒は新しい革袋に盛れのたとえの通り、我々の扱う分野でも、従来のやり方に固執することなく、斬新で大胆な発想の衛生管理、安全管理の手法を確立してまいりましょう。我が社における〝食品事故ゼロ・イヤー〟の実現に向けて、来年も品質管理本部一丸となって頑張っていきたいと思います。それでは、例年にならいまして僭越ながらわたくしが乾杯の音頭を取らせていただきます」

 功一郎はそこで、「みなさん、ご唱和をお願いいたします」と一拍置く。改めて部下たちの顔をじっくりと眺め、

「それでは、来年のみなさんのご多幸、ご健康を祈念いたしまして、かんぱーい」

 日本酒の入った右手の紙コップを高々と掲げて声を張り上げたのだった。

 会議室では部下たちが三々五々集まって料理をつまみ、酒を酌み交わしながら歓談している。功一郎のところへも次々と部員たちが挨拶に来る。

〝前の世界〟では、改正食品衛生法にそなえた品質管理体制改善の陣頭指揮を執ることはかなわなかった。我孫子に移ってからも早見や吉葉がしばしば功一郎のもとへ相談に通ってきていたものだ。新しい本部長は法務畑とはいえ食品衛生に関してはずぶの素人で、早見たちからすれば頼りにならない上司だったのである。

 人の輪からちょっと外れて、「だが……」と功一郎は思う。

 ──来年、自分が独立してしまえば、この世界でも彼らとは一緒にやることができないというわけか……。

 部員たちと談笑している早見や吉葉の姿を眺めながら、少し申し訳ない気持ちになる。

「本部長、レイワって何ですか?」

 そんなことをつらつら考えていると部下の一人が声を掛けてきた。


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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

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週末は書店へ行こう! 目利き書店員のブックガイド vol.10 啓文社西条店 三島政幸さん