◇長編小説◇白石一文「道」連載第10回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第10回
偶然、街中で碧に会った功一郎。馴染みの鮨屋で会話を重ねるうち、彼女が美雨と時折連絡を取っていたことを知る。

「道」連載一覧


 
     5
 

「確かに、おにいさんがおっしゃる通り、自分の力を試すのなら年齢的にもいまが最後のチャンスかもしれないですね」

 酒はワインから焼酎に変わっていた。

 時刻は午後八時を回ったところだ。カウンターにゲタが置かれたので、これから二代目自慢の絶品の寿司が握られてくる。

「でも、美雨ちゃんのためにそうするっていうのは私も、姉の言うとおり話の筋が違うような気がします」

 碧の言葉は功一郎にはちょっと意外だった。

 会社や組織に身を置いた経験の薄い渚と違って、彼女なら独立に賛成してくれると思っていたのだ。碧のビジネスセンスが一流であるのは、二年間の同居生活で充分に分かっていた。

「そうかなあ」

 功一郎は呟く。

 渚に独立の話をしたのは四日前、クリスマスイヴの夜だった。美雨のいないイヴの夕食を二人で済ませ、紅茶とケーキの時間に、

「ここ数年、ずっと考えていたことなんだけど」

 と彼は切り出した。

・今回の一件にしても、きみにばかり家庭を押しつけてきたツケが回ってきたような気がしている。これからはもっときみや美雨と一緒に過ごす時間を増やしたい。
・今回の一件で、家族の大切さを改めて美雨から教えて貰ったような気がする。
・今後は、父親として美雨に対して真正面から向き合っていきたい。そのためにも自分で自分の時間を管理できる立場を得たい。サラリーマンの世界にいる限り、それは絶対に不可能だと思う。

「だからこの際、独立して自由な立場で、食品の品質管理の問題に取り組んでいきたいんだ。幸いいろんな人脈もすでにできているし、セミナーや講演、執筆依頼もたくさん来ているからね。これまでは会社優先で一部しか引き受けられなかったけど、独立すれば専念できる。フジノミヤ食品以外の食品会社からもアドバイザリー契約の話が来るだろうし、だとしたら、収入だって今よりずっとよくなるんじゃないかと思うんだ」

 功一郎は一生懸命に説明した。

 独立は決定事項としても、渚に快く受け入れて欲しいと願っていたからだ。ちゃんと話せば分かってくれると信じて疑わなかった。なので、話の途中から彼女の面上に困惑の色が滲(にじ)んでくるのを見て彼はひどく面食らったのだった。

「美雨や私のために独立するというのはやめて欲しい」

 渚は開口一番そう言った。

「そんな理由で独立されて、万が一にもあなたが行き詰まったとき、私たちには責任の取りようがないから」

 その言い方は、要するに「絶対反対」ということだった。

「独立後に苦労があったとしても、別にきみたちのせいになんてしないよ」

 なので、功一郎も多少やり返すような物言いになってしまう。

 渚はやや怯(ひる)んだ表情を見せたが、今度は懐柔口調になって言った。

「何も独立なんてしなくていいと思う。美雨のことが心配なのは分かるけど、でも、重病を患ったわけでも大怪我をしたわけでもないし、若い頃にはいろいろあって当たり前だと私は思っているの。それに、来年はあなたも役員昇進が確実なんでしょう。その先には社長になる可能性だって充分にあるんだから、いま辞めるなんてすごくもったいないと私は思う」

「なんでそんなこと知っているんだ?」

 役員だの社長だの、一体どこから聞き及んだのか?

「この前、早見さんが遊びに来たとき、帰り際にそう言っていたの。このまま順調に行けばあなたが堀米(ほりごめ)さんの次の社長だろうって」

「早見のやつ……」

 社長の堀米正治(まさはる)は、堀米が相模原(さがみはら)の工場長だった時代からずいぶんと品質管理を巡ってやり合った相手で、いまでは肝胆相照らす仲と言ってもいい。功一郎が役員昇進を断ったとき、わざわざ「管理監」という役員待遇のポストを設けた上で我孫子工場に送り出してくれたのも堀米の配慮だった。

 ちなみに相模原工場は、我孫子工場と並んでフジノミヤ食品の基幹工場だ。

「とにかく、会社を辞めるなんていまは考えないで欲しいの。もし、どうしても独立したいのなら美雨の問題が片づいてからにしてちょうだい。美雨や私のためじゃなくて、あなたが自分自身のために独立を決めてくれないと、私だってこれから本気で支えていけなくなると思う」

 渚はそう言うと自分から話を打ち切ってしまったのだった。

「だけど、家族を守るために夫が仕事を変えたいと言い、独立しても経済的な迷惑はかけないと約束しているんだよ。そういう言い草は、それこそ筋違いのような気もするけど」

 功一郎はぼやき口調で碧に言う。だが、それが本音だった。

 美雨を失って、彼は家族の大切さを痛切に思い知らされたのだ。だとすれば、今回の娘の一大事に手をこまねいているわけにはいかない。美雨と本腰を入れて対峙するなら、まとまった時間を確保する必要があるし、それならば独立が一番手っ取り早い方法でもあろう。

「おにいさんがどうしても独立したいのなら、勝手に会社を辞めて、事後報告にすればいいじゃないですか。そしたら姉も諦めをつけると思いますよ」

「うーん」

「でも、とりあえず美雨ちゃんのことは私に任せて下さい。彼氏とも会って、二人が何を考えているのか聞いてきますから。それが分かるまで、おにいさんはじっとしておくのが一番だと思います」

 この店の名物であるマグロの漬けを口に放り込みながら碧が言う。そうやって出てきたにぎり寿司を碧は美味しそうに次々と平らげていく。

「じゃあ、そうしようかな」

 碧に言われるとそんな気にもなってくる。

「今日は碧さんとばったり会えて良かったよ。これも何かのご縁なんだろうね。とにかく美雨のことをよろしく頼みます」

 功一郎は改めて碧に頭を下げる。

 それからは麦焼酎を酌み交わしながらいろんな話をした。

 碧のプライベートにもそれとなく探りを入れる。

 いつぞや渚に聞いた話では、彼女にはいま結婚を約束した相手がいるはずだった。〝前の世界〟ではその彼氏に別れを告げて功一郎たちとの同居に踏み切るわけだが、もうそんな不本意な未来を彼女が選択する必要はなかった。

「碧さんも学生の頃、美雨みたいに夢中になる相手がいたの?」

「おにいさんはどうでした?」

 逆に碧が訊いてくる。


「道」連載一覧

白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第161回
今月のイチオシ本【ノンフィクション】