◇長編小説◇白石一文「道」連載第12回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第12回
〝今の世界〟に来てから三ケ月。功一郎は、ある大きな「ずれ」に気付く。東日本大震災という未曾有の厄災が起きていた。

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 帰宅したのは午後九時半過ぎだった。

 渚には早見たちと一杯やってくるとラインしておいたので、別段不審がられることもなかった。酔い覚ましの濃い緑茶を淹れて貰う。

 ダイニングテーブルで熱いお茶をすすりながら、キッチンで煮物をこしらえている渚に声を掛けた。

「美雨は?」

 玄関に靴はなかったし、彼女の部屋の前を通っても人の気配は感じられなかった。

「今日は直美(なおみ)さんのところに行って、そのあとは美咲(みさき)ちゃんの家にお泊まりだって」

 直美さんというのは、花房(はなぶさ)美咲の叔母で、もとはJALの国際線のスチュワーデスだったが、英国人のリチャード・ネイサンという外交官と結婚して、長らくイギリスで暮らした人だった。現在は夫のリチャードが日英協会の理事におさまり、夫婦で南青山のマンションに住んでいる。美雨と美咲は中学時代からこの直美さんにずっと英会話を習っているのだった。

 美咲の父親は楽器の輸入商で、彼女の実家も同じ南青山にある。

 それもあって英会話の日はときどき、美雨は美咲の家に泊まってくることがあるのだった。

 美雨は大学を出たらUNHCRやUNICEFのような国際機関で働きたいと高校二年の頃に碧に打ち明けていたという。いまになってみれば、長年の語学への情熱にはそうした思いが込められていたのだろう。

 だとするならば、その夢は、彼女の中で一体どうなってしまったのか?

 二十歳になるかならないかで十六歳も年上の男と結婚し、男の開いたイタリア料理店を手伝いながら大学を終え、そのあとは夫婦で店を守り、子供を産んで育てていく――そのために外部進学まで考えたほどの彼女の夢は、そうやっていとも簡単に潰(つい)えて構わないものだったのだろうか?

「美雨の彼氏って東京の出身なのかな?」

 それとない口調で訊いてみる。

 標連(れん)が石巻市の出身だと渚が知っているなら、当然、「東日本大震災」で彼が母と妹を失ったことも知っているに違いなかった。

「さあ……」

 しかし、渚は首を傾げただけだった。

 標と一緒になると決めたとき、一番の難敵は母親だと美雨は言ったというから、渚に腹を割って相談するような場面はいままで一度もなかったのだろう。だとすれば、彼女が標の出身地を知らないのも頷ける話ではある。

「いい匂いだね」

 渚が鍋の蓋を取って味を見ている。

 美味しそうな香りが功一郎のもとまで漂ってくる。

「ヨーカドーで北海道フェアをやっていて、上物の身欠きニシンが安かったのよ」

 身欠きニシンと大根のしみ煮は渚の得意料理だ。功一郎の大好物でもあった。

「ちょっとつまんでみる?」

 そう言われて、

「いや、明日にするよ。一晩寝かせた方が味がしみて美味しいから」

「そうね」

 渚はコンロの火を止めると前掛けを外しながら、

「じゃあ、私、先にお風呂に入ってくるね」

 と言った。

 今夜は美雨も外泊だし、交わるにはいい機会だ。今年に入ってまだ一度も渚を抱いていなかった。

 これからすぐにでも六畳間に籠もって「東日本大震災」を始めとした〝今の世界〟の歴史チェックに取りかかりたい誘惑にも駆られるが、その一方で、さきほどまで一緒にいた碧とそっくりの渚を存分に犯したいという倒錯した欲望も感じた。

「僕も入るからお湯は抜かないでくれ」

「うん。じゃあ、寝室で待ってるね」

 そう言って、渚はいそいそとリビングルームを出ていったのだった。


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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

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