◇長編小説◇白石一文「道」連載第12回

夢の中の彼は、長倉(ながくら)人麻呂邸でニコラ・ド・スタールの「道」と向き合っている。「道」を凝視しているうちに沿道の風景と思い込んでいた両側の三角形が真ん中の道とは異なる、別の新しい道に見えてくる。左は黒、右はバラ色がかった白の道だ。それら二本の道も、真ん中の道と同じように画面の中心に描かれた黒い三本の木立に向かって真っ直ぐに延びている。
彼は、これまで通りに左の黒い道を選択する。
そして、「こっちの道に乗り換えたい」と強く願った刹那、もの凄い力で壁の方へと吸い寄せられていく。
ここまでは功一郎が実際に体験したことをそのまま再現したようなものだった。だが、夢にはさらに続きがあった。
「道」の中へと飲み込まれた彼は、一瞬の後に視界が元通りになると、奇妙な世界にいることに気づくのである。
そこは液体の中だった。
全身がぬるぬるした液体に包み込まれ、身体を動かすと重くねっとりとした抵抗を感じる。ゼリーか寒天の中にでもどっぷり浸かっているかのようだ。息苦しさはなく、口を開けても液体が流れ込んでくることもない。だが、急に手足が痺れたわけでも、強い重力に捕まったわけでもなく、ゼリー状の透明な液体の中に本当に閉じ込められてしまっているのは確かだった。
――おかしいな……。
周囲を見回しても何も見えない。四方はどこまでもゼリーで満たされていて、透明度は高いから見通しは悪くないのだが、前後左右上下、何一つ形のあるものは見当たらない。
――おかしいな……。
もう一度功一郎は思う。
――本当ならば教室の椅子なり、会社の自席の椅子なりに尻を打ちつけるようにして〝落下〟するはずなのに……。
そのあたりから、これが夢であることに彼は気づく。
夢ならば何も恐れることはない。この不思議な環境を存分に楽しめばいいのだ。
気持ちを軽くして、鼻先の方へと歩き出す。真水よりもはるかに抵抗は強いから決して歩きやすいわけではないが、しかし、息苦しさはなく、疲労感も増すことがないので、どこまでも歩いて行けそうな気がする。
一時間、いや二時間近くは歩いただろうか?
前方に不意に不思議な景色が出現した。
左から右へと長い壁のようなものがあって、それはよく見ると壁ではなく中空に横に延びる帯状のものだった。
できる限り足を速めて、功一郎はその帯状のものへと近づいていく。
百メートルほど手前まで来ると、それが帯ではなくて横にずらりと並んだ絵画か写真のようなものであることが分かった。
さらに五十メートルほど進んで一度立ち止まり、左右に途切れることなく続いている、それらの絵か写真かを一望する。
顔を少し前に突き出し、目を細めて一枚一枚をじっくり検分しようとした。
だが、どうしたことか、どれ一つとしてはっきりとは見えないのだ。
これくらいの距離であればせめて正面の数枚はどんな絵なのかどんな写真なのか分かりそうなものだったが、ある一枚に絞って絵柄を見極めようとすると、いつの間にか視界にぼんやりとした白いもやのようなものがかかってくる。
何度繰り返しても同じだった。
ただ、そうやって目を凝らしているうちにどの一枚もどこかの風景や人物を描いたものらしいと分かってくる。一体どこで誰が何をしているのかはさっぱりだが、とにもかくにも一枚一枚それぞれが、この世界を絵筆で描くなり、カメラで撮影するなりしたものだという感触はあった。
――もう少し近づいてみよう。
さきほどまでの警戒心はすでに解け、気持ちは大胆になりつつある。
――どうせ、これは夢に過ぎないのだ。
という安心感もある。
正面に浮かんでいる数枚を目指して功一郎は力強く一歩を踏み出す。
そのときだった。
耳元で鮮明な声が聞こえたのだ。
「ようこそ、スタールのギャラリーへ!」
びっくりして足を引っ込め、周囲を見回した。
どこにも声の主の姿はない。
「ようこそ、スタールのギャラリーへ!」
しかし、もう一度同じ声が、最初よりよほどくっきりと聞こえた。
声には明らかに聞き覚えがある。
――これは一体誰の声だったっけ?
そう首を傾げたところで、功一郎はいきなり夢から覚めてしまったのだった。