◇長編小説◇白石一文「道」連載第13回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第13回
美雨は変わらず、標と交際を続けているようだった。功一郎は、不思議な夢を見た。

「道」連載一覧


 
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 功一郎が渋谷道玄坂のピザレストラン「ベリッシマ」に行ったのは、碧とコレド室町で会って九日後の一月十八日金曜日のことだった。

 その日は午前七時前に出社し、誰もいない職場で、昨夜借りてきた「恋は雨上がりのように」のDVDをデスクのPCで視聴した。二時間足らずの映画だったので、部員が出てくる頃には観終わっていた。

 主人公の女子高生を演じる小松菜奈は、CMなどで顔は知っていたが演じている姿を観るのは初めてだった。典型的な美少女というわけではないが、確かな芝居と独特の雰囲気で存在感は際立っている。突然、女子高生に告白される中年店長役の大泉洋も、二人の関係がしっくりくるようなこないような微妙な間合いを巧みに作り出していて、さすがの演技力だった。

 全編に亘って爽快感のあるいい映画だったが、功一郎は主人公の顔についつい美雨の顔を重ねてしまうので、エンドロールが流れる頃には気持ちがどうにも落ち着かなくなってしまっていた。

 しかも、映画の中の二人は身体の関係は結ばなかった。寸前まではいくのだが、男の方が分別を発揮して踏みとどまるのだ。

 だが、美雨たちは最後の一線を越え、それどころか妊娠までしてしまったのだ。

 それを思うと居心地の悪さはさらに募ってくる。

 部下たちが出社してきて、仕事に取りかかっても胸の中のもやもやはなかなか晴れない。十時を回ったところで功一郎は席を立った。

 ホワイトボードに「本屋回り 一時スギ」と書いて会社を出る。

 今日は会議が一本も入っていないので割と自由に動くことができる。そういうときは、食品関係の書籍を探しに神田界隈を歩くこともたまにあったので、誰に見咎められることもない。

 標連が店長を務める「ベリッシマ」のことはだいぶ前に店名や場所を渚から聞いていた。「こっそり、彼の顔を見てくるよ」

 と口にして、

「やめた方がいいよ」

 渚にたしなめられたこともあった。

 功一郎の方も、娘を妊娠させた男の顔をこそこそ拝みに行くなど業腹でもあり、そう言われてあきらめたのだ。

 だが、美雨が中学時代からファンで、作中の主人公に憧れていたというコミックを実写版映画で観てしまうと、どうしても想像上の標の顔が大泉洋とダブってしまう。内田篤人に似ていると碧は言っていたが、幾ら振り払っても人懐っこい顔立ちの大泉が美雨に寄り添っている姿が脳裏に浮かんでくる。

 ――こうなったらホンモノを自分の目で確かめるしかないな。

 そう思い立って会社を出てきたのだった。

 渋谷に着いたのは十時半。「ベリッシマ」は十一時開店なので、それまで大盛堂(たいせいどう)書店で時間を潰すことにしてスクランブル交差点を渡る。

 交差点は相変わらずの混雑振りだが、ここでも誰一人マスクをつけていないのが不思議だった。普通に街を歩けるようになって四ヵ月近くが過ぎたが、功一郎は、いまでもときどきマスクをしていないのが不安になることがあった。丸一年、コロナウイルスが蔓延する世界で暮らしているうちに、マスクが新しい日常として我が身にしみついてしまったのだと、こっちに来て改めて痛感させられている。

 大勢の人々に混じって横断歩道を渡りながら、この人たちも来年の今頃は品薄のマスクを何とか確保しようと狂奔することになるのだ、と思う。

 むろん、この世界でも〝前の世界〟と同じように新型コロナウイルスが中国・武漢(ぶかん)市の華南海鮮卸売市場で発生すればの話ではある。

 これまでの検証作業からするところ、〝今〟と〝前〟の世界の違いは「東日本大震災」に限られている。だとしたら、コロナウイルスの蔓延は予定通りに起きるようにも思えるが、一方で「東日本大震災」とはまた別種の大災害とも言うべきコロナの蔓延は、案外、こちらでは起きないのではないかという読みもあった。

〝今の世界〟では大震災が起こり、〝前の世界〟ではコロナ禍が起きる。そうやって両方の世界での悲劇の総量が均等になるように仕組まれているのではないか――何の根拠もないのだが、そんな気がしなくもないのだ。

 大盛堂書店では二十分ほど雑誌や文芸書を眺めただけで再び外に出た。

 渋谷109に向かって道玄坂を上っていく。

 昼時にはまだ間があるが、道玄坂は行き交う人々でごった返し、車の数も凄かった。109の前には若者たちが大勢たむろしている。その道玄坂下の交差点を左へと進路を取る。ここを過ぎて百メートルも歩けば「ベリッシマ」があるはずだった。

「ベリッシマ」はすぐに見つかった。

 道の右側に古くて大きな雑居ビルがあり、一階にはコンビニやハンバーガーショップが入っているのだが、地下や上階にはさまざまな飲食店が入居していた。

 一階と二階のあいだに各店の看板が掛かっていて、そのうちの一枚が「2F ベリッシマ Bellissima」だった。

 ちなみに「ベリッシマ」とはイタリア語で「最も美しい女性」という意味だ。

 なるほど二階のあたりを見れば右側の窓に「Bellissima」と筆記体で記された緑色の大きな看板が掲げられている。

 通りに面してエスカレーターが設置されていたので、さっそく二階へと上がった。

 時刻は十一時五分。

 金色の取っ手を掴んで重いドアを引く。

 開店したばかりの店内へと歩を進めた。

 さすがに広いホールは閑散としている。カウンター席はなく全部テーブル席で、ざっと見ても二十五席くらいはありそうだ。客は窓側の席に一組と厨房の近くに一組。窓側は若いカップルで、厨房側のテーブルにはスーツ姿の三人組が座っていた。

 ホールの入口で席を見渡しているとシャツに黒いズボン姿の背の高い男性が近づいてくる。

「いらっしゃいませ」

 彼は、笑みを浮かべ、こちらへどうぞと促してくる。

 カップルとは少し離れた右端の窓際席へと案内してくれた。

「こちらの席でいかがでしょうか?」

「ありがとうございます」

 礼を言ってファミレス風のソファ席に座る。

「いま、お水とメニューをお持ちしますね」

 胸の名札には「店長 標(しめぎ)」と記されている。

 一目見たときからそうだろうと思っていた。


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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

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