◇長編小説◇白石一文「道」連載第15回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第15回
我孫子工場で、〝前の世界〟ではなかったはずの大きな問題が生じていた。功一郎は、社長の堀米にアポを取った。

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 午後八時を回ったところで、堀米が保坂に電話した。我孫子工場に関するあらましを伝え、途中で手の中のスマホを対座する功一郎の方へと差し向けてくる。

 結局、功一郎が保坂に詳しい説明を行った。

「すべて了解。いまから長谷川さんに連絡して明朝一番で本社に来て貰うことにするよ。橋本君の名前は出さないからご心配なく。結果は、聴取が終わったらすぐに社長ときみに連絡するよ」

 保坂はそう言って、そのまま通話を打ち切ったのだった。

「明朝、長谷川さんの話を聞いたあと堀米さんと僕に連絡をくれるそうです」

 切れたスマホを堀米に返しながら言う。

「そうか。これで一件落着だな」

 堀米はそう言って、残っていた焼酎の水割りをうまそうに飲み干した。

 腕時計を覗き、

「じゃあ、もう一軒だけ行くか」

 と立ち上がる。

「はあ」

 堀米が二次会に誘うことは余りなかった。

「何か予定でもあるの?」

「いえ」

 功一郎はかぶりを振って立ち上がる。足が痺れているのを知り、自分がずっと正座だったのに初めて気づいた。

 その様子を見て堀米が、「なんだ、まだ若いのに情けないなあ」と面白そうに笑う。

 堀米の車に同乗して飯田橋のホテルグランドパレスへと向かった。

 その最上階のクラウンラウンジも彼の行きつけである。

 ホテルグランドパレスは、二年後の二〇二一年六月に閉館する予定だ。新型コロナによる営業不振が原因だった。閉館のニュースに接したのは、功一郎が〝今の世界〟にやってくる少し前、二〇二一年二月半ばのことだ。開業五十周年を目前にしての無念の閉館――そんな記事を読んだ記憶がある。

 二〇二〇年に開催予定だった東京オリンピックが一年延期されたことも大きく響いたようだ。かつてはプロ野球のドラフト会議が開かれ、あの金大中(キムデジュン)事件の舞台にもなった由緒あるホテルだった。

 車窓越しに春宵(しゅんしょう)の都心の景色を眺めている堀米はそのことを知らない。来年、コロナウイルスが世界中に蔓延し、オリンピックも延期となり、大袈裟でなく人類全体が生活様式を一変せざるを得なくなるという事実も彼には知るよしもないのだ。

 ――もしも、うちの会社が航空会社や旅行代理店、外食チェーンやホテルチェーンだったらどうしていただろう?

 さきほど取締役就任を受諾し、経営陣の一角に名を連ねることになってみて、功一郎は堀米の端整な横顔を見ながらふと思う。

 来年の業績急降下を睨んで、役員の一人として何か特別な施策を提案するだろうか?

〝前の世界〟と同じようにコロナが広がれば、自分の提案した施策は大きく評価されるだろう。たとえ採用されなくても先見の明で衆望を集めるに違いない。

 そんなことを考えているうちに、コロナ禍で大幅に売上を伸ばすフジノミヤ食品においても、いまから準備すればさらなる増収増益が見込めるのだと気づく。

 ――早見や吉葉を引き込んでそのための具体的なプランを練ってみるか……。

 コロナのことは告げずとも、家食や宅配にさらに注力した形での商品ラインナップや生産計画を立案するのは難しいことではない。早見も吉葉も品質管理だけでなく、営業、企画、商品開発、マーケティングとさまざまな部署を経験してきた優秀な人材だった。功一郎が役員に昇格すれば、特命事項として彼等に業務外でプラン作りを託すこともできるようになるだろう。

 今日も、抜き打ち視察の帰りに利根川ゆうゆう公園に立ち寄って、独立のことを考えたばかりだ。美雨のためにそうすべきだと昨年から固く決意していたはずだった。

 それが、こうして堀米に役員昇任を内示された途端に、会社での今後の仕事をどうやって広げていくかで知恵を絞っている。

 我ながら自分の節操のなさに呆れる思いだった。

 ただ、一方で別の感慨もある。

 先ほども「ちとせ」で不意に頭に浮かんだのだったが、美雨のことはあの標連に任せてもいいのではないか――なぜだか自分は心の奥深くでそんなふうに受け止めているような気がする。

 たった一度、名乗るでもなく渋谷の「ベリッシマ」で遠目に働きぶりを眺めたに過ぎないが、功一郎にはその一度きりで、標という男の芯の部分を見定めることができた感触があった。

 そして、その感触の確かさは日を追うごとに薄れるどころか増しているようでもある。

 ――俺は、心のどこかで美雨に愛想を尽かしているのだろうか?

 そんなはずはなかった。時間を遡ってまで奪還した愛娘なのだ。彼氏のことくらいで見放したりするわけもない。

 美雨を死なせずに済んだことで、当初の目的の大半が達成されてしまったということなのか?

 どうにも自分自身の胸の内がはっきりしない。

 堀米の横顔から視線を外し、腕時計の文字盤に目をやる。

 まだ午後九時前だった。

 渚は、今日はアートフラワー教室の授業のあと、経営者の床次英美里(とこなみえみり)と食事だと言っていた。もとから夕食は外で食べる予定だったのだが、堀米との会食で帰宅が遅くなりそうなこと、酒が入るので車を会社に置いていくことなどを念のために夕方ラインで彼女に伝えておいた。

「了解しました。あまり飲み過ぎないようにね。私もエミリーと少し長話になるかもしれません」

 送信するとすぐにその返信が届いたのだった。

 床次英美里は、渚が西葛西のアートフラワー教室に通っていたときの同窓で、現在、渚が講師として勤めている「タック・アートフラワースクール」の経営者でもある。

 といっても会社は弟との共同経営で、彼女は渚同様、講師として日々、生徒たちにアートフラワーを教えている。

 年齢は渚より二歳年長で、社長を務めている弟が渚と同年だと聞いたことがあった。

 英美里は名前からも察せられるのだが、日本人の父親とアメリカ人の母親との間に生まれたハーフだ。母親がスウェーデン系アメリカ人なので、それにちなんで会社の名前を「タック」と付けたのだという。「タック」というのはスウェーデン語で「ありがとう」という意味なのだそうだ。

 功一郎も何度か英美里とは顔を合わせたことがある。

 美しい顔立ちだったが、エネルギッシュさが勝る快活な女性だった。この人だったら教室の二つや三つ起ち上げて当然だろうと思わせるような人物だ。

 万事慎重で、思慮深いタイプの渚とは正反対の印象だったが、その好対照が二人を引き寄せたのかもしれない。二歳とはいえ英美里の方が年上だったのもウマが合った要因だろうと功一郎は推測している。

 グランドパレスの正面玄関で車を降り、堀米と二十三階に上がった。

 クラウンラウンジの座り心地のいい肘掛けソファに腰を落ち着けて再び向かい合う。

 堀米は白州12年のハイボール、功一郎は山崎の水割りを注文した。つまみはオードブルの盛り合わせだけ。

 酒が届くと、堀米はグラスを手にして、無言で乾杯の仕草をした。功一郎も水割りのグラスを持ち上げる。

「しかし、よかったよ」

 一口飲んだハイボールをテーブルに戻して堀米が独りごちるように言った。

 功一郎が怪訝な表情を作ってみせると、

「いや、きみが役員を引き受けてくれて」

 と言う。

「きみの名前はこの業界では聞こえているからね。そろそろ独立したいと言ってくるんじゃないかと冷や冷やしていたんだよ。今日も実は、そんなことなら会社を辞めさせてくれと言われるような不吉な予感がしていたよ」

「まさか……」

 図星をつかれて功一郎は内心舌を巻く。


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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

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