◇長編小説◇白石一文「道」連載第16回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第16回
思わぬ場所で、妻の渚が仕事先の男性と一緒にいるところに出会した功一郎のもとに、これまた思わぬ人物が現れる。

「道」連載一覧


第四部

 
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 二〇一九年六月十七日月曜日。

 出社してほどなくの午前九時過ぎ、受付から連絡が入った。

「本部長、おはようございます。お約束ではないそうですが、山本(やまもと)さんという方が本部長をお訪ねになっております」

「山本さん?」

「はい。『去年の九月に本部長に助けていただいた金髪の女の子』と伝えて貰えれば分かるとおっしゃっているのですが……」

 去年の九月?

 金髪の女の子?

 一瞬、何のことか分からなかったが、すぐに思い当たった。

「分かりました。いま降りていくので、そこで待って貰ってて下さい」

 そう告げて内線電話を置く。

〝彼女〟のことはすっかり忘れてしまっていた。しばらくは気になっていたし、渚(なぎさ)も「どうして御礼の一つくらい言ってこないのかしら?」とこぼしていたが、それもひと月くらいのことで、そのうち思い出すことさえなくなっていたのだった。

 だが、「去年の九月」に「助け」た「金髪の女の子」といえば、三軒茶屋(さんげんぢゃや)の交差点で間一髪で事故に巻き込まれるのを防いだ女性に間違いないだろう。

 それにしても、あの事故からすでに九ヵ月近くが経っている。

 今頃になって、しかも、わざわざ職場にまでやって来たのはなぜだろう?

 椅子の背に掛けてある上着を羽織って、功一郎(こういちろう)はエレベーターホールへと向かう。

 先週の定時株主総会で正式に取締役に就任したのだが、席はこれまでと同じ品質管理本部長席だった。とはいっても、保坂(ほさか)の専務昇格に併せて、彼が担当していた経営企画本部の本部長を兼任することになったので、功一郎の席は八階の経営企画本部にも設けられている。

 ただ、八階には前職の保坂がいるので、功一郎は当面、会議のとき以外はあまり顔を出さないようにしようと考えていた。

 経営企画本部を任されたこと自体は大歓迎だった。

 これで、早見(はやみ)や吉葉(よしば)たちと一緒に思う存分に〝対コロナ〟の経営戦略を練ることができる。

 二人にはさっそく今週にでも詳しい話をして、宅食およびテイクアウト、宅配に的を絞った新しい商品開発と製造・流通システムの検討を指示しようと考えている。

 それに併せて、今秋か遅くとも年末には早見を経営企画本部に企画室長として送り込む腹づもりだった。

 武漢(ぶかん)の華南海鮮卸売市場で謎の肺炎が見つかったというニュースが流れるのは十二月だ。その一報に接した時点で即座に〝対コロナ〟の生産体制を構築できるようにしっかりとしたスキームを準備しておかねばならない。

 四月一日に発表された新元号は〝前の世界〟と同じく「令和」だった。

 いまのところ、〝前の世界〟と〝今の世界〟で起きる出来事はほぼ同一と見受けられる。

 昨年十一月に逮捕されたカルロス・ゴーンは一月にルノーの会長を辞任したし、二月に開かれた二回目の米朝首脳会談は物別れに終わった。三月には、ニュージーランドのクライストチャーチで五十一人が亡くなる銃乱射事件が起き、四月には元工業技術院院長が、池袋で母子二人を死なせる痛ましい暴走事故を起こした。五月にはトランプ米大統領が国賓として来日し、トヨタの売上高が史上初めて三十兆円を突破した……。

 こうした世の流れから察するに、〝今の世界〟でも〝前の世界〟がそうだったように、来年早々から新型コロナウイルスが猛威を振るう可能性が高いと思われる。そのための施策を用意しておくメリットは計り知れないだろう。

 一階の受付に行くと、ロビーの端に置かれた長椅子にほっそりした女性が座っている。

「山本さま」

 受付の女性が彼女に声を掛けるのと、彼女が功一郎の方へと顔を向けて急いで立ち上がるのとがほとんど同時だった。

 功一郎も早足になって彼女に近づいていった。

 正対すると、相手が深々とお辞儀をする。

「あのときは本当にありがとうございました。ご挨拶がこんなに遅くなってしまって誠に申し訳ありませんでした」

 ぎこちない口調だが、丁寧に御礼の言葉を口にする。

 金髪の頭が持ち上がり、正面に顔が向いた。上背は結構ある。百六十五センチくらいか。

 ──こんなに背の高い人だったのか……。

 少し意外な気がしたが、非常に痩せているので抱き取ったときの手応えが軽かったのだろう。

 黒のタンクトップに青いデニム。赤と紫の花模様が散った前開きのワンピースを羽織るように身につけている。足下は黒のサンダルだった。

 砕けた服装だが、キャミソールやワンピース、パンツやサンダルも高級そうな品物に見える。

 大きな黒縁の眼鏡をかけていた。

 事故の日、彼女が何を着ていたのか思い出そうとしたがまるで記憶にない。憶えているのは、両耳にワイヤレスイヤホンをはめ、手の中のスマホに見入っている姿だけだ。

 首筋や胸元の肌のみずみずしさが若さを物語っていた。恐らく美雨(みう)と似たような年回りだと思われる。

 目も鼻も口許も形が良く、眼鏡を外せばさぞや美しい顔立ちだろう。

 唯一、金色のショートヘアーが顔にも服装にもそぐわない印象だった。

 どうしてこんな金髪にしているのだろう?

 間近に見て、違和感を覚える。

「この会社だとよく分かりましたね」

「はい。あのとき、警察の方に唐沢(からさわ)さんのお名前と勤務先を教えていただいたんです。すぐにでも御礼に伺いたかったのですが、いろいろな事情もあってなかなかお訪ねすることができなくて……」

「はあ」

「あのお……」

 そこで彼女がおずおずとした調子で訊ねてくる。

「いま、少しだけお時間をいただくことってできますか? もしお忙しければまた日を改めて伺います。その事情のことも含めてちゃんとご説明させて貰えればと思っているのですが」

「はあ」

 面と向かっているうちに、どこかで見たような顔だと功一郎は感じ始めていた。

「時間はありますよ。だったら、ちょっとお茶でも飲みに外に出ましょうか?」

「できれば、こちらの会社のお部屋をお借りしたいんですけど……」

 そこで、彼女が奇妙なことを言った。

「あまり人に見られたくないものですから。すみません、突然お邪魔した上にヘンなわがままを言って」

 恐縮したようにまた深々と頭を下げた。

「構いませんよ。殺風景な部屋ですけど、いいですか?」

「ありがとうございます」

 一度顔を上げ、また彼女は低頭する。

 その様子を眺めながら、やっぱりどこかで見た顔だと功一郎は思った。

 七階に連れて行くのも人目があるので、小さな応接室が並んでいる二階に彼女を案内する。

 まだ十時前だから来客もそこまで多くはないだろう。案の定、応接DとEが空室で、ドアのところの予定表を確認するとどちらも午後まで予約は入っていなかった。

 一番奥のEの部屋に二人で入る。

 四畳半ほどの絨毯(じゅうたん)敷きの個室だった。テーブルを挟んでソファが向かい合わせで配置されている。窓はあるが、隣のビルの壁面しか見えない。殺風景と言えば殺風景な部屋ではある。

 ソファの一つにまず彼女を座らせる。応接室には各々コーヒーメーカーが常備されていて、セルフでコーヒーを飲むことができる。カップホルダーにセットした白いプラカップにコーヒーを注いで、彼女の分と自分の分を卓上に置いたあと功一郎も反対側のソファに腰を下ろした。

「すみません。コーヒーしかないんですが」

「ありがとうございます。いただきます」

 彼女はカップを持って一口すする。

「さっきはごめんなさい。ヘンなことを言っちゃって」

 カップを戻して照れたような笑みを浮かべた。

「いえ」

「私のこと、ご存じじゃないですか?」

 そこでまた彼女は奇妙なことを訊いてきた。

 功一郎にすれば何と答えていいか分からない。

 すると、彼女はかけていた黒縁眼鏡を外し、頭に両手を持っていくと髪の毛を掴んで引っ張り上げる。

 金髪がすっぽりと外れる。その下から黒いショートヘアーが現れた。

 いきなりの早変わりに功一郎の方は唖然とするしかない。

 カツラを膝の上に置いて髪を整え、彼女が居住まいを正すようにする。

「これで、どうですか?」

 自信なげな口振りだった。

 その顔を一目見て内心、驚愕していた。


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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

◎編集者コラム◎ 『ちえもん』松尾清貴
◎編集者コラム◎ 『モーツァルトを聴く人』詩/谷川俊太郎 絵/堀内誠一