◇長編小説◇白石一文「道」連載第16回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第16回
思わぬ場所で、妻の渚が仕事先の男性と一緒にいるところに出会した功一郎のもとに、これまた思わぬ人物が現れる。

「霧戸(きりと)ツムギさんですよね?」

 間違いないと確信しつつ名前を口にする。

「よかった。ご存じでしたか」

 彼女がほっとしたような表情を作った。

 霧戸ツムギは、現在最も人気のあるアイドルユニットのメンバーで、その中でも一、二を争う人気者であり売れっ子だった。最近はアイドル活動だけでなく女優業にも乗り出し、映画やテレビドラマに活躍の場を広げている。

 功一郎のような年代でも、霧戸ツムギの名前を知らない人間はいないだろう。それこそ「恋雨」の小松菜奈(こまつなな)に匹敵するかそれ以上の知名度と言ってもいい。

「あまり人に見られたくない」

 というさきほどのセリフの意味がようやく腑に落ちた気がした。

 だが、功一郎が内心で驚愕せざるを得なかった理由はそれだけではなかった。

 彼女がやがて引き起こす〝大事件〟のことがみるみる思い出されてきたのだ。

 霧戸ツムギが少し身を乗り出すようにした。

「あの日、唐沢さんに助けていただいて、その日のうちに御礼を伝えに行こうと思っていたんです。ところが、病院まで迎えに来てくれた事務所のマネージャーに相談したら強く反対されて、それで行こうにも行けなくなってしまったんです」

 ツムギは、そこでまたコーヒーを一口すすった。

「せっかく警察や消防にも私の正体がバレていないのに、そんな真似をしてあんな時間にあんたが三茶にいたことがバレたら一体どうするんだってマネージャーにすごく叱られてしまって……」

「そうだったんですか」

 何となく察せられるものはあったが、とりあえず功一郎は素知らぬ態(てい)で頷いてみせる。

「実は、私、あの日、三茶に住んでいる彼氏のところにお泊まりしていたんです。それで三茶で事故に巻き込まれたとメディアにバレるのをマネージャーがすごく警戒しちゃったんですよね」

「はあ」

「彼氏も芸能人なんで、噂になったらどっちの事務所も確かに大変なんです」

「なるほど……」

 功一郎もコーヒーを一口すすった。

 生真面目な表情で話す霧戸ツムギの顔を眺めながら、だったら、いまさら礼になど来なければいいだろうに、と単純に思う。

「そういう事情であれば仕方ないですよ。今日だってわざわざこんな会社にまで訪ねて来なくてよかったと思います。時間もだいぶ経っているし、僕としては、あなたが無事に助かったと当日に警察の人から聞いて、それでもう充分満足だったわけですから」

 率直に言ってみた。

「そうですよね。ここまで時間が過ぎたあとでいきなり訪ねて来られて御礼を言われても唐沢さんの方は迷惑なだけですよね」

「いや、そういうわけではないんですが……」

 こんなに間近で有名なアイドルと向かい合って、功一郎は内心で薄気味悪さを感じていた。まさか、あの日、三軒茶屋の交差点で助けたのが霧戸ツムギだとは思いもよらなかった。

「一昨日、その彼氏に初めて事故のことを話したんです。それまではマネージャーにもきつく口止めされていたし、彼に話すのもきっと迷惑だろうと思って。でも、時間もずいぶん経ったし、もういいかなと思って、あの日、事故に巻き込まれそうになったところを唐沢さんに助けて貰ったって打ち明けたんです。もちろん、当時は三茶住まいだったんで、彼は駅前の栄光(えいこう)銀行に車が突っ込んだ事故のことはよく憶えていて、すっごい驚いて、私がその人に御礼も何も伝えていないって話したら、『お前、一体何考えているんだよ。いのちの恩人に御礼もしていないなんて人間としてサイアクサイテーだろ』ってめっちゃ叱られてしまって。一刻も早くその人のところへ会いに行ってこいって言われたんです」

「なるほど」

 彼氏に叱られて、慌てて訪ねてきたというわけか──ますますきな臭いものを感じながら功一郎は思う。

 その「芸能人」の彼氏というのが恐らく戒江田龍人(かいえだりゅうと)なのだろう。

 戒江田龍人は、ストリートダンサー出身の俳優で、十年ほど前にNHKの朝ドラで大ブレークし、その後はヒット作を連発。いまや若手のトップに君臨する超人気俳優であった。

 二人はテレビドラマでの共演をきっかけに付き合うようになり、事件が起きる一年ほど前から半同棲の状態になっていたのだった。

 事件が起きたのは二〇一九年の八月だったと記憶する。

 つまり〝前の世界〟と同じようにあの事件が起きるのであれば、あと二ヵ月かそこらで目の前の霧戸ツムギの人生は激変してしまうのだ。

 ――彼女は、戒江田の命令には絶対服従というわけか。

 事件後、報道された二人の関係性に鑑みれば、いかにもありそうな成り行きではあった。

「それで……」

 霧戸ツムギが手にしていたバッグから何か小さな包みを取り出し、テーブルの上でこちらに差し出してきた。

「いのちの恩人に御礼をするといっても、そんな御礼があるとも思えなかったんですが、せめてもの私の気持ちです。どうか受け取って下さい」

 彼女が手にしているのは四角い小箱だった。髙島屋の包装紙にくるまれている。

「これは何ですか?」

「唐沢さんの好みが分からないので、何を買えばいいのか迷ってしまって。ご自身でお好きなものを買っていただきたくて、これにしました」

 どうやらデパートの商品券のようだった。

「そういうものを受け取るわけにはいかないですよ」

 功一郎はできるだけ気安い感じで言った。

「ご迷惑でしょうか?」

 何やら切羽詰まった表情になって霧戸ツムギが言う。

 恐らく戒江田龍人から必ず受け取って貰えと厳命されているのだろう。

「迷惑とかそういうわけではないんですが……」

「じゃあ、ぜひお受け取りください」

「うーん」

 功一郎はしばし考えるように間を置いた。

 頭の中ではさまざまな想念が渦巻いている。

「やっぱり、こういう金銭的なものをいただくのは気が進みません。申し訳ないですが辞退させて下さい」

「そうですか……」

 彼女がひどく落胆したような表情を見せる。

「その代わり、電話番号を交換しませんか?」

 そこで間髪容れずに提案する。

 霧戸ツムギが怪訝な表情になった。

「こうして本来あり得ないような形で知り合ったのも何かのご縁かもしれません。霧戸さんみたいな有名人からすれば、見ず知らずの僕のような人間に電話番号を教えるなんて論外なんでしょうが、ご覧の通り決して怪しい者ではありませんし、僕には霧戸さんと同い年くらいの娘もいます。こう言ってはなんですが、今後もあなたが何か困ったときに少しくらいは助けになれるかもしれません。もちろん、僕の方でも霧戸さんに助けていただきたいことができたら、遠慮なく電話させて貰います。いかがですか?」

「そんなことくらいでいいのでしょうか?」

 尚も不審そうな顔で相手が言った。

「はい。ちょっと厚かましくはあるんですが」

「もちろん、私の電話番号でよければお伝えします」

 さっそく功一郎は上着からアイフォーンを取り出した。

「じゃあ、いまから言う僕の番号に電話をして貰えませんか」

 霧戸ツムギもバッグからスマホを出す。暗唱した番号にあわせて目にも留まらぬ速さで画面をタッチし、あっと言う間に功一郎の電話が鳴った。彼女の番号がディスプレーに表示されていた。

「ありがとうございます。家族も含めて、この番号を他の誰かに教えることは絶対にしませんからご安心下さい」

「私、唐沢さんのことを信用しているので、そんな心配はしません」

 霧戸ツムギがきっぱりと言った。

 金髪に戻った彼女を一階の正面玄関まで送っていった。

「ところで、その彼氏さんとはうまくいっているんですか?」

 別れ際に訊ねると、

「はい。私たち、すごく仲良しなんです」

 霧戸ツムギは、今日初めてというような明るい笑顔になってそう返してきたのだった。

 七階の自席に戻ったあと、功一郎はしばし思案にふけった。

 さきほどの一場がまるで架空の出来事のようだった。


「道」連載一覧

白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

◎編集者コラム◎ 『ちえもん』松尾清貴
◎編集者コラム◎ 『モーツァルトを聴く人』詩/谷川俊太郎 絵/堀内誠一