◇長編小説◇白石一文「道」連載第16回

昨年の九月二十八日に三軒茶屋の交差点で助けた金髪の女性が霧戸ツムギだったのも嘘みたいな話だが、彼女があのとき、本当なら美雨の身代わりになっていたかもしれないという事実は、それ以上に不可思議な話だった。
──これは一体どういうことなのだろうか?
〝前の世界〟の霧戸ツムギは、この八月に芸能界史上でも特筆すべき大事件を起こす。
彼女は恋人の戒江田龍人を、彼の新宿の自宅マンションで殺害し、自身も戒江田の部屋のベランダから身を投げて自殺してしまうのである。
戒江田の居室は高層マンションの最上階で、そこから飛び降りた霧戸ツムギは即死だった。
被害者、加害者ともに死亡し、二人の間に何があったのか真相は明かされないままではあったが、当代一の人気俳優と超人気アイドルの「無理心中」は世間の耳目をかっさらうには充分過ぎる大事件だった。
それからの数ヵ月間、二人の事件がどこかのメディアで取り上げられない日は一日もないような状況が続いたのである。
──もし、あの日、俺が霧戸ツムギを助けなければ……。
功一郎は考え込んでしまう。
そうすれば、霧戸ツムギは死んでいたに違いなく、一方で、二ヵ月後に刺殺されるはずの戒江田龍人は死なずに済んだのではないか?
あのとき、功一郎は、事故で亡くなるはずの美雨を助けたせいで別の誰かが身代わりになってしまうのを恐れた。だからこそ美雨にカバンを預けて、一人で交差点に引き返したのだ。
だが、結果的にその行為が戒江田龍人と霧戸ツムギの両方を死なせることに繋がってしまう……。
むろん、それは間違った行為ではなかったのかもしれない。
霧戸ツムギのいのちを助けなければ、〝前の世界〟で起きた事件は起こり得ず、それはそのまま本来の歴史をねじ曲げることになってしまうからだ。
〝今の世界〟に来たとき、歴史への介入はしないと功一郎は心に決めた。変えるのは自分や自分の家族の人生だけに限定しようと考えたのだ。
だが、どんなに小さな石でも池に投げ込んでしまえば、その波紋はどこまでも広がっていく。標連(しめぎれん)と美雨のこともそうだし、床次礼音(とこなみれおん)と渚とのこともそうだった。長谷川(はせがわ)工場長や森内(もりうち)製造課長の更迭人事もそうだし、自分がこうして独立をやめてフジノミヤ食品の役員になっていることもそうだ。波紋は幾重にも広がり、家族以外の人々の人生をも大きく変えていってしまう。
しかし、さきほどの出来事はそうした不可避な現象とは根本的に異なっているような気がする。
仮に霧戸ツムギがわざわざ功一郎を訪ねて来なければ、八月の刺殺事件は〝予定通り〟に発生し、世間は〝予定通り〟の大騒ぎとなるのだろう。
だが、一昨日、霧戸ツムギがあの事故の顛末をたまたま戒江田龍人に打ち明けたことで、戒江田が「いのちの恩人」に会いに行くように彼女を促し、彼に絶対服従の霧戸ツムギは早速、功一郎のもとへとやって来たのだ。
これは非常に複雑で厄介な状況だと考えられる。
なぜなら、霧戸ツムギと会ったことで、彼女の起こす事件を知っている功一郎には、霧戸と戒江田の二人を助けるチャンスが与えられてしまったからだ。
事件後の報道によれば、霧戸は、十歳近く年長で強烈な個性を持つ戒江田に完全にマインドコントロールされていたようだった。二人の関係は事件のだいぶ前から業界内では知られるようになってきており、戒江田の言いなりと化した霧戸は、仕事の面でもプライベートの面でも所属事務所の方針と食い違う態度を示すようになっていたという。どれもこれも裏には戒江田の指示があったらしく、霧戸の事務所は戒江田の所属事務所に強硬にクレームを入れていたようだった。
やがて霧戸ツムギは戒江田の事務所に移籍したいと言い出し、これでいよいよ両事務所の対立は決定的になった。仲裁に入ったテレビ局幹部も霧戸の戒江田への心酔ぶりに呆れ果てて早々に手を引く始末だった。
ところが、その矢先、戒江田が別のアイドルに手を出していることが霧戸の耳に入る。この一件で両者の関係は急速に悪化。事件が起きた当夜、二人は戒江田のマンションで激しい口論となり、その後、大酒を飲んで寝入ってしまった戒江田を霧戸がキッチンにあった刺身包丁で滅多刺しにして絶命させ、自分も三十六階のベランダから身を投げて自殺してしまったのだった。
そうしたおおよその経緯は戒江田の部屋に残されていた霧戸の遺書めいた走り書きから判明したのだといわれている。
いましがた別れたばかりの霧戸ツムギの様子をあらためて思い返してみる。
態度にも言葉遣いにもこれといって変わったところは見受けられなかった。二十歳前後の年齢にしてはしっかりしている感じだった。中学時代からアイドルとして活動し、生存競争の厳しい芸能ビジネスの世界で多くの人間たちに揉まれながら勝ち残ってきたゆえだろうか、むしろ大人びた印象さえ感じられたのだ。
だが、それはそれとして彼女の表情には何かしら焦慮のようなものが見え隠れしていた。目にも切迫した光が宿っていた。全体として熱に浮かされているような雰囲気が漂っていたのも事実だったのだ。
事件後の報道をすでに知っている以上、自分の見方にかなりのバイアスがかかっているのは確かだろう。だが、そうしたものを差し引いても、先ほどの霧戸ツムギには奇妙なたたずまいがあったように思う。
もちろん、〝前の世界〟で起きた陰惨な事件が〝今の世界〟でも起きると決まったわけではなかった。
「その彼氏さんとはうまくいっているんですか?」
という別れ際の問いかけに、
「はい。私たち、すごく仲良しなんです」
と彼女は笑顔ですぐに返してきた。
その笑顔を素直に受け取るなら、〝今の世界〟の二人は〝前の世界〟の二人とは違った関係性で結ばれているのかもしれない。
とはいえ、それはやはり楽観に過ぎると功一郎は考える。
彼女の今朝の様子を子細に反芻すれば、あの笑顔はアイドル兼女優の職業的な演技と見なした方がいいように思えた。
当時の報道によると、事件の数ヵ月前から霧戸と戒江田は戒江田の女性問題で揉めていたという。だとすれば、現在の二人が「すごく仲良し」というのは言い過ぎだろう。その行き過ぎた言葉の中に彼女の嘘を嗅ぎ取れるような気がする。
今日だって霧戸ツムギは本当は挨拶になど来たくなかったのかもしれない。
戒江田に、「人間としてサイアクサイテー」とこてんぱんにやられて、やむなく足を運んできたのではないか?
功一郎が多少の無理を冒して彼女の電話番号を聞き出したのは、万が一の場合を想定しての咄嗟(とっさ)の判断だった。
もしも〝前の世界〟と同じような事件が起きるのだとすれば、彼はこの二ヵ月のあいだに大きな決断を迫られることになる。
霧戸ツムギと戒江田龍人をこのまま見殺しにすべきなのか?
それとも二人の間に割って入って、事件の発生を未然に防ぐべきなのか?
──仮に後者を選択するのなら、霧戸ツムギの連絡先くらい知っておかなきゃ始まらないだろう……。
彼は、霧戸との面談中にそう思いついて、とりあえず電話番号を交換することにしたのである。
麻生(あそう)探偵事務所の麻生所長から連絡が入ったのは、昼食を終えて会社に戻った直後だった。
──今日は朝から何やら不穏な感じだな。
電話口で所長の低い声を耳にした瞬間、そんな気がした。
調査結果がまとまったので、いつでも報告できるとのこと。
「だったら、これからでもいいですか?」
と訊いてみる。
「もちろんです。私が、そちらに伺いますよ」
「いや。僕が事務所に行きます」
ちょうど二ヵ月前、調査を頼んだときも高田馬場(たかだのばば)の事務所を功一郎が訪ねたのだった。
「そうですか。でしたら二時でどうでしょう?」
デスク上のデジタルウォッチの数字は「13:10」。高田馬場までは東西線で十分程度の距離だから充分余裕があった。
「じゃあ二時にお邪魔します」
そう言って、功一郎は自分から電話を切ったのだった。