◇長編小説◇白石一文「道」連載第16回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第16回
思わぬ場所で、妻の渚が仕事先の男性と一緒にいるところに出会した功一郎のもとに、これまた思わぬ人物が現れる。

 麻生所長とは数年前にひょんなことで知り合った。

 ある日、大学の同窓で公認会計士をやっている中居信介(なかいしんすけ)と銀座で飲んでいたら、たまたまその店に麻生所長が来ていて、彼の方から声を掛けてきたのだ。中居は仕事柄、麻生事務所にしばしば信用調査を依頼しているようだった。

 結局、その夜は三人で遅くまで飲んだ。以来、年に一度か二度は中居も交えて一緒に飲む間柄になった。

「唐沢さんも何かあったらいつでも相談に来て下さい。中居さんとは堅い仕事ばかりだけど、うちは浮気調査も素行調査も得意なんです。その道のプロを何人も揃えていますから万に一つも失敗することがありません」

 一緒に飲むたびに麻生はその種の営業トークを忘れない男だった。

 保険会社や金融機関ならいざ知らず、フジノミヤ食品が業務上で探偵事務所に調査を依頼する案件などなく、これまで麻生と仕事上の付き合いは皆無だった。

 なので、まさかこういう個人的な問題で彼に相談を持ち込むことになるとは夢想だにしていなかったのだ。

 午後二時ちょうどに「麻生探偵事務所」のドアを開ける。

「探偵事務所」といってもテレビに出てくるようなちっぽけなビルの小さな個人事務所というわけではなく、駅からは少し遠いもののそれなりの規模の商業ビルの三階のワンフロアを占める立派なオフィスだった。

 前回初めて訪ねたときに麻生から聞いたところでは、従業員は三十六名。内勤を除く常勤の調査員だけで二十名近くを抱える大所帯だという。

 受付の女性におとないを入れると、これも前回同様にオフィスの右奥に並んだ応接室の一つに通された。

 別の女性が冷たい緑茶を二つ持ってきて、「麻生がすぐに参ります」と言い置いて出て行く。

 五分もせずにノックの音がして、A4サイズのクリヤーブックを手にした麻生がドアを開けて入ってきた。

「一度ならず二度までもご足労いただき申し訳ない」

 サバサバとした物言いで会釈を一つくれると、青い表紙のクリヤーブックをテーブルに置きながら向かいの椅子に座る。応接室といっても小会議室という感じで、テーブルも椅子も会議用のシンプルなものだった。

「二ヵ月の調査期間をいただいたので、しっかりとした調査ができました」

 前置きはなく、すぐに麻生は本題に入る。

 二ヵ月前もそうだったが、今日はそれにも増して引き締まった表情だ。酒の席だけの付き合いなので、彼のそういう態度に接したのは初めてで、その分、頼りがいを感じたものだった。

 麻生はテーブルに置いた手元のクリヤーブックを持ち上げた。ページは開かず、

「今回は三名の調査員で細大漏らさず調査し、結果はこのファイルの中に詳細に記されています」

 と言い、

「これを私の方で読み上げながら説明することもできますけど、まあ、唐沢さんが、ご自身で一読すれば全部分かるように書かれているから、いまは概要だけ伝えればいいかと思います。それでいいですか?」

 と続けた。

「もちろんです」

 功一郎は麻生の生真面目な顔を見つめながら頷いた。

「分かりました」

 彼はクリヤーブックを下ろし、テーブルの上で手を組むと落ち着いた口振りで話し始めた。

「奥さんと床次礼音氏は、この二ヵ月のあいだに七回会っています。会うのは奥さんが木場のアートフラワースクールで講師を務めた日の午後で、時間帯はおおよそ午後三時から六時くらいまで。場所は、七回とも床次氏が借りている人形町のマンションでした。床次氏の自宅マンションは八丁堀にあるので、この人形町のマンションは奥さんと会うためのものと思われます。その証拠に、床次氏はそれ以外の用事では一度もこのマンションを使っていません。要するに密会専用の部屋ということでしょう。床次氏がマンションを借りたのは三年前、二〇一六年の四月のことです。その点からして、奥さんと床次氏との関係は、少なくとも三年前から始まったと推定されます。ただ、タック・アートフラワースクールの元従業員たちの証言に基づけば、それ以前から二人が親密な関係だった可能性も高く、そのあたりの詳細はファイルの中の証言録をご覧ください。

 奥さんは、月、水、金の週三日、午前、午後一コマずつの授業を受け持っていると唐沢さんには話していますが、二年前から水曜日、金曜日は午前に二コマの授業をこなして、午後は授業を行っていないようです。水、金は午前中いっぱいで仕事を終わらせ、買い物などを済ませて一旦自宅に戻り、床次氏と会う日は、そのあと午後二時半過ぎに再び家を出て人形町に赴いています。つまり、二人が会うのは水曜、金曜が主で、この二ヵ月間で月曜日に会ったのは一度きりでした」

 そこまで話して麻生は言葉を止める。手元の緑茶で一度喉を潤した。

「まあ、結果は、唐沢さんの見立ての通りだったというわけです。ただ、二ヵ月間の調査中、二人がマンション以外の場所で会ったことはなく、それこそ一緒に外でお茶を飲んだり、食事をしたりといったこともしていません。そういう意味ではお互い、非常に割り切った関係を続けてきたのだろうと思われます。とはいえ、奥さんがマンションに食材を持ち込んだり、床次氏がテイクアウトの食べ物を持参したりといった様子は確認できているので、割り切っていると同時にできるだけこの関係を露見させることなく継続させていきたいという強い意志が二人のあいだで共有されているのも確かでしょう。このファイルには、マンションへのそれぞれの出入りや、立ち寄り先での行動を撮影した写真も添えてあるのでご確認ください。

 そしてもう一つ、奥さんと床次氏とのあいだには金銭的トラブルの形跡はなく、また、双方でプライベートな金銭のやりとりがある可能性もほとんどないだろうというのが調査員たちの一致した見方でした」

 麻生はそこで再び言葉を区切り、もう一度グラスの緑茶をすすって、

「私からの説明は以上です」

 と告げた。

 金銭トラブルや金銭のやりとりがないというのは、要するに二人の関係は合意に基づく単純な恋愛関係ということなのだろう。

「そうですか……」

 功一郎は視線を麻生の顔から、彼の手元に置かれたクリヤーブックへと動かしながら呟くように言った。

 あの渚が三年以上ものあいだ、ほぼ毎週、自分以外の男と寝ていたというのがにわかには信じられなかった。

 麻生は「唐沢さんの見立ての通り」と言ったが、功一郎は、仮に渚が床次礼音と浮気をしているとしても、それは、ごく最近始まった関係だと推し量っていたのだ。

 ──美雨と標連とのことを知って、渚は一時的に自暴自棄になったのだろう。

 そんなふうに思い込んでいた。

「マンション以外では会っていないとおっしゃいましたが、じゃあ、どうしてあの晩に限って二人はグランドパレスにいたんでしょう?」

 真っ先にそう訊ねたのは、やはり現実を認めたくないという心理が働いたからだろう。

「それは発想が逆かもしれませんね」

 麻生が不思議な言い方をした。

「発想が逆?」

「つまり、四月五日の晩に偶然一緒にいるところを唐沢さんに見られ、人形町のマンション以外では絶対に会わないと二人で決めたのだと思います。三年以上も付き合っているにもかかわらず、外でお茶を飲むことさえしないというのは明らかに異常な警戒ぶりなので、五日のことがあって特に用心しているのだと思いますね」

「ということは、それまでは外でも羽を伸ばしていたということですか?」

「そうでしょうね。とはいえ、密会専用の部屋を準備して、会うのも昼間の時間帯に限定しているわけですから、彼等が関係の秘匿に特段の注意を払っているのは確かです」

「なるほど」

 そうやって渚はあのキアヌと平日の真っ昼間からラブホテル代わりのマンションで交わり続けてきたというわけか……。

 目の前の麻生に渚の素行調査を依頼したときから、彼女と床次礼音との関係を強く疑っていたのは確かだった。しかし、こうして否定しようのない事実を突きつけられると頭の中がひどく混乱してくる。

 早見や吉葉と「禄寿園(ろくじゅえん)」に出かけた日、ホテルグランドパレスで渚と床次礼音が食事以外のことをしていたと分かり、「これは間違いなくクロだ」と感じた。だからこそ、日を置くことなく功一郎は調査を依頼したのだ。

 二ヵ月、三ヵ月と時間は掛かってもいいから徹底的に調べて欲しい、と彼は麻生に言った。

 そして、自分自身はこの件から一切手を引いてしまった。

 日々の暮らしの中で渚を疑い、監視し、クロかシロかと心悩ませるような惨めな真似だけはしたくなかった。それでなくても美雨のことや仕事のことで頭の中はいっぱいいっぱいだった。妻の不貞まで抱え込む時間的な余裕も精神的な余裕も功一郎にはなかったのである。

 ──今後どうするかは、調査結果が出てから考えればいい。

 そうやってモラトリアムを決め込んでいたが、結局のところ自分は千に一つ、渚が「シロ」だという方に賭けていただけなのかもしれない――いまの我が身の混乱ぶりからして、功一郎はそう思わざるを得ない気分だった。

「こういう言い方はお気に障るかもしれませんが……」

 黙り込んでいる功一郎を見かねたのか麻生が口を開く。


「道」連載一覧

白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

◎編集者コラム◎ 『ちえもん』松尾清貴
◎編集者コラム◎ 『モーツァルトを聴く人』詩/谷川俊太郎 絵/堀内誠一