◇長編小説◇白石一文「道」連載第16回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第16回
思わぬ場所で、妻の渚が仕事先の男性と一緒にいるところに出会した功一郎のもとに、これまた思わぬ人物が現れる。

「奥さんのようなケースは非常に多いんです。妻の浮気に関しては、夫は何年も気づかないのが普通で、男が鈍感だからとか日頃から妻に関心を払っていないからだとよく言われますが、本当の理由は、妻の側が非常に細心で注意深いからです。これは考えてみれば当然の話で、彼女たちにとって夫以外の男と関係を持つのは非常にリスクが高い。浮気がバレることによって蒙(こうむ)る打撃は男性の比ではありませんからね。下手をすると何もかも失う羽目になる。それこそ経済的な基盤のみならず、自分が産んだ子供まで一切合切奪われる危険性がある。だからこそ彼女たちは決してバレないように徹底した情報管理を行うんです。唐沢さんがいままで気づかなかったのは、ある意味当然の話なんですよ」

「はあ」

 よく回らない頭で麻生の話を耳におさめながら、確かに渚の浮気が判明して、自分は渚を責める以上に、彼女の背信にまるで気づけなかった迂闊な自分自身を責め、さらには深く恥じているような気がした。

「一つ訊きたいんですが、こういう場合、夫側は妻に対してどういう態度を取るのが一般的なんですか?」

 渚の浮気が本当ならば自分はどうすべきか──そのことはこの二ヵ月のあいだぼんやりと考え続けてきた。

「そこはきれいに二分されるんです。見て見ないふりも含めて妻を許し、夫婦関係の継続を望むケースと、もう一つは断固として離婚するケースですね」

「なるほど」

 それはそうだろうと思う。

「で、その比率はどのくらいなんでしょうか?」

「経験的に言うと七対三くらいですね」

「継続が七ですか?」

「いえ。おおよそ七割の男性は、妻の浮気を許さずに離婚してしまいますね。夫が浮気した場合はちょうどこれと正反対の数字になります。それだけ妻の浮気のリスクの方が高いということです。実際のところ、夫に内緒で別の男と付き合っている妻たちは非常に多数に上るはずですが、夫側とは違って、彼女たちは露見しないよう最大限の注意を払っているのだと思われます。奥さんの場合もまさしくそうですね」

「なるほど」

 功一郎はただ頷くしかない。

 三時前には「麻生探偵事務所」をあとにした。麻生は三階のエレベーターホールまで見送りに来て、

「お嬢さんも今年成人のようだし、正直なところ奥さんとは別れた方がいいかもしれませんね。さっきは割り切った関係と申し上げたけど、三年以上というのは長過ぎます。奥さんの方も相当ご執心なんでしょう。しかも相手は独身ですからね」

 と言い、

「唐沢さん、お互いもう人生も終盤戦です。思うように生きるのが一番ですよ」

 と一言添えてきたのだった。

 高田馬場駅まで戻り、駅前のコーヒーショップに入った。

 貰ってきたクリヤーブックをカバンから取り出し、パラパラとめくる。ページの半分くらいは渚や床次礼音の姿をおさめた写真だった。隠し撮り風のものもあれば、間近で撮影されたカットもある。

 麻生の説明の通り、二人のツーショットは一枚もないが、人形町のマンションのエントランスをくぐるときのそれぞれの様子を見れば、二人がどういう目的で同じ場所に通い詰めているのか一目瞭然に思えた。

 この写真を目の前に突きつけたら、渚は一体どんな言い訳をするのだろうか?

「週に一度、床次さんから英語のレッスンを受けているのよ」

「三年以上もか?」

「そうよ」

「どうして僕に隠していたんだ?」

「あら、隠したりしていないわよ。あなたにはちゃんと話していたと思うけど」

 そんなやりとりが頭に浮かび、もうそれだけで怒りの炎が胸に湧き上がる。

 クリヤーブックには四月五日のホテルグランドパレスの宿泊カードのコピーまで添付されていた。宿泊者名は「床次礼音」。住所は八丁堀の自宅住所。

 それにしても、探偵たちは、こんなものをどうやって入手したのか?

「うちは浮気調査も素行調査も得意なんです。その道のプロを何人も揃えていますから万に一つも失敗することがありません」

 今度は、麻生の口癖が脳裏によみがえってくる。

 クリヤーブックの中身をざっと確認して、功一郎はそれを再びカバンにしまう。

 冷め切ったコーヒーを一口すすった。

 頭の中はいまもって混乱の極みだが、〝今の世界〟に来てすぐからずっと胸中にわだかまっているモヤのようなものが今日はまた一段と色を濃くしているのを感じた。

 美雨の中絶といい、渚の裏切りといい、〝前の世界〟にいるときは想像もできないような事態の連続だった。

 それに加えて今朝、急に訪ねてきた霧戸ツムギの件もある。

〝前の世界〟で美雨が事故に巻き込まれた際も現場に霧戸ツムギはいたのかもしれない。そして〝今の世界〟では彼女が美雨の身代わりになるはずだった。それを功一郎が何とか回避させた。そうやって〝前の世界〟と〝今の世界〟との「ずれ幅」を小さくしたつもりでいたが、今日になって霧戸ツムギが訪ねてきたことで、そうとは言い切れない現実を突きつけられた。

 だとすれば、美雨の中絶や渚の不倫はどう捉えればいいのか?

 美雨にしろ渚にしろ、事故以前から標と付き合い、床次と関係を持っていたわけだが、それは〝今の世界〟の現実であって、〝前の世界〟では一体どうだったのか?

 美雨の場合は、親友の花房美咲(はなぶさみさき)と待ち合わせていた事実、三軒茶屋の駅を出て近づいてくるときの浮かない様子などから〝前の世界〟でもすでに標連と密かに交際し、妊娠もしていたのだろうと功一郎は考えている。

 では、渚の場合は?

〝前の世界〟でも彼女は夫の目を欺いて床次礼音との逢瀬を長年に亘って続けていたのだろうか?

 功一郎には、自分が妻の不倫に三年以上も気づかない不注意な男だとはどうしても思えなかった。しかし、先ほどの麻生の解説では、夫の側は総じて妻の不倫に気づけないのだという。「妻の浮気に関しては、夫は何年も気づかないのが普通で、」「唐沢さんがいままで気づかなかったのは、ある意味当然の話」だと麻生は言っていた。

 本当にそういうものなのか?

〝前の世界〟でも渚がこの世界と同じように人形町のマンションで床次礼音との密会を重ねていたのだとすれば、あの美雨が亡くなった日、彼女は一体どこで何をしているときに警察からの一報を受けたのだろう?

 麻生の事務所から高田馬場駅までの十分ほどの道のりで、功一郎がずっと考えていたのはそのことだった。

 あの日、渚から会議中の功一郎の携帯にラインが来たのは午後四時過ぎ。慌てて外に出て電話を入れると彼女はすでにタクシーに乗って病院へ向かっているところだと言っていた。

 功一郎は、渚は当然自宅で連絡を受けたあと東陽町のマンションを出て、永代(えいたい)通りでタクシーを捕まえたのだろうと考えていた。記憶は曖昧だが、彼女はそんなふうにあのときも説明したような気がする。

 だが、今にして思えば渚はなぜ自分の車を使わなかったのだろう?

 むろん、美雨の事故を知って動転しているわけだから、運転などできない心理状態だったのかもしれない。だが、それはそれとしても、一刻も早く駆けつけるために運転上手の彼女なら自家用車を使うという選択肢も皆無ではなかったと思われる。

 そして、さらなる疑問がもう一つ。

 仮に自宅で警察からの一報を受けたのであれば、彼女はなぜマンションを出る前に功一郎に連絡を寄越さなかったのか? あのときは最初に電話が入って次にラインが来た。だがその間隔は一、二分に過ぎなかった。電話もラインも彼女はタクシーの中から発信したのだ。

 なぜ、彼女はタクシーに乗るまで功一郎に連絡しなかったのか? 普通ならば警察からの電話を終えた途端にまずは夫である功一郎に伝えるのではあるまいか?

 調査結果によると、床次礼音が人形町に密会用の部屋を借りたのは二〇一六年の四月だったという。渚が水曜日と金曜日の授業を午前中に集めて午後をフリーハンドに切り替えたのが二年前の二〇一七年。それ以降、二人は主に水曜日と金曜日の午後三時から午後六時までの三時間を密会の時間として利用していたらしい。

 あの日、二〇一八年九月二十八日は金曜日だった。

 渚は、床次との逢瀬を楽しんでいる真っ最中に美雨の事故を知らされたのかもしれない。慌てて人形町のマンションを飛び出してタクシーを拾い、その中から功一郎に電話した……。

 麻生の事務所を出た直後に功一郎はそのことに思い当たったのだった。

 もしそうであれば、美雨の妊娠の事実とは比較にならないほどの精神的なダメージを渚が受けたのは確実だろう。

 愛娘が車に撥(は)ね飛ばされて重傷を負ったことを、男との肉欲に溺れている最中に彼女は突然知らされたのだ。パニック状態で服を身につけ、驚愕する男の顔には目もくれずに密会部屋を飛び出し、病院に駆けつけ、すでに事切れた娘と対面する──彼女の受けた衝撃は想像するに余りあるものであったろう。

 だとすれば、あの気丈な渚が日を追うごとに鬱の度合いを重くしていったのも充分に頷ける。彼女は自らの愚かさを責め、罪悪感に苛まれ、呪われた我が運命に恐怖したに違いない。

 ──〝前の世界〟でも、渚は床次と関係を持っていたのだ。そして、俺はその事実にまったく気づかないまま彼女との暮らしを続けていたのだ。

 功一郎はコーヒーを飲み干して立ち上がる。

「唐沢さん、お互いもう人生も終盤戦です。思うように生きるのが一番ですよ」

 麻生の言葉が頭の中に響く。

 ──俺の場合、時間まで遡って、思うように生き直そうとした結果がこれか……。

 美雨を取り戻し、渚の鬱病を阻止できたことを思えば一切贅沢を言えないのは重々承知している。

 ──しかし、幾らなんでもこれはないだろう……。

 功一郎は不意に泣き出したいような気分になった。

(つづく)
連載第17回


「道」連載一覧

白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

◎編集者コラム◎ 『ちえもん』松尾清貴
◎編集者コラム◎ 『モーツァルトを聴く人』詩/谷川俊太郎 絵/堀内誠一