◇長編小説◇白石一文「道」連載第17回

◇長編小説◇白石一文「道」連載第17回
やはり、渚は密会を重ねていた。あの日も妻は、男とベッドを共にしていたのだ。功一郎は言葉を失った。

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 朝刊一面では、昨日の板門店での米朝首脳による電撃会談の記事が大見出しで報じられている。

 二〇一九年六月三十日のこの会談は結果的には何の成果にも繋がらず、それどころか来年の米大統領選挙で二期目を目指したトランプ大統領は民主党のバイデン候補に敗北を喫する──という〝事実〟を功一郎はすでに知っている。

 二〇二一年二月二十四日までの〝未来〟を記憶した状態で〝現在〟の出来事にこんなふうに触れるのにも大分慣れてきた。

〝未来の目〟で新聞を読む面白さも徐々に感じられるようになってきている。

 たとえば次のような記事。

〈米国大統領が北朝鮮国内に足を踏み入れた歴史的な意義は大きい。(中略)ただし、最大の懸念である北朝鮮の非核化はなおざりだ。(中略)北朝鮮は今もウラン濃縮施設の活動を続ける。(中略)そうした北朝鮮にトランプ大統領が歩み寄って、歴史的和解をことさら強調する必要があるのかは疑問だ。(中略)「歴史的」という言葉を連発するトランプ氏の姿からは、北朝鮮の非核化よりも来秋の大統領選に向けて「偉大な業績」を米国民にアピールしたい思惑が透ける。(中略)今回の板門店会談後も何ら進展がなければ、「壮大な政治ショーだった」という歴史的評価をまぬがれないだろう。〉

 この朝日新聞の園田耕司(そのだこうじ)記者の「解説」は実に正鵠(せいこく)を射ている。

 園田記者の予見した通り、トランプ大統領のやったことは結局、単なる「政治ショー」以外の何物でもなかったのだ。

 一面から経済、国際、スポーツ、文化とじっくり各面に目を通して最後の社会面までたどり着いたところで功一郎はその訃報を見つけた。

 著名な狂言師、元農水次官、元地方銀行頭取と並んでそれはあった。顔写真はない。

〈道明健一郎さん(どうみょう・けんいちろう=DOMYO元会長)26日、肝臓がんで死去。83歳。ゴルフ用品大手のDOMYOを創業。全日本ゴルフ協会理事としてアマチュア選手の育成などに尽力した。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長女でDOMYO会長の久美子(くみこ)さん。近く東京でお別れの会を開く(日程は未定)〉

 掛け時計の針は午前七時になろうとしていた。

 功一郎はリビングのソファに陣取って、いつものようにコーヒー片手に新聞を読んでいる。

 キッチンでは渚が朝食を準備していた。

 今朝は久しぶりに味噌汁を作っているようだ。出汁と味噌の香りが食欲をそそる。

 月曜日は決まって夫婦二人きりだ。美雨は金曜日の夜から標連の住む用賀(ようが)に行き、月曜日も標の部屋から渋谷の大学へと通っている。

 功一郎も渚も正式に認めたわけではないが、美雨のそうした週末同棲はここ数ヵ月ですっかり既成事実化してしまっていた。

 月曜日は渚もアートフラワースクールがあった。午前六時過ぎには二人で起き出し、しっかりと朝食を食べて、功一郎は八時過ぎに出勤。渚の方は授業が十時からなので、片付けや洗濯などを終えて九時半を回ってからプリウスで家を出ているようだった。教室は木場の深川ギャザリアにあるので、それでも充分に時間的な余裕はあった。

 美雨が週末同棲を始めたことで功一郎たちも土日のどちらかで交わるようになった。土曜日にするか日曜日にするかは渚の気分次第だった。

 いまにして思えば、それも床次礼音との密会を織り込んでのチョイスだったのだろう。

 礼音と金曜日に寝たあとは日曜日を選び、水曜日だったときは土日どちらでもいい。だが、次の週、月曜日しか礼音の都合がつかない場合は土曜日を選択する。渚はそんなふうにセックスの割り振りをしてきたのではないか。

 必ず中一日以上は空けて夫と愛人とのセックスを繰り返す──几帳面な彼女ならいかにもやりそうな工夫にも思える。

 麻生の調査報告を聞いて以降は、さすがに渚を抱く気にはなれなかった。

 セックスのない週末が二度続いたわけだが、彼女の方はそれを別段不審に感じている気配はない。

 功一郎は道明の訃報を繰り返し読んだ。

 ──これは〝前の世界〟と〝今の世界〟の明らかな「ずれ」だ……。

〝前の世界〟では道明健一郎は存命だった。

 二〇二一年二月二十四日までのあいだに彼の訃報を目にした記憶はない。

〝前の世界〟でも今の時期に道明が亡くなっているのであれば、仮に訃報を見逃したとしても一年半余りのうちにその死に気づかないはずがなかった。

 美雨の事故以降クラブを握ることはなくなったもののゴルフ界の動静は自ずと耳に入ってくる。

 中居を筆頭に友人たちの一部は功一郎がかつて道明家の婿だったのを知っている。道明が亡くなれば彼等がそれを話題にしないはずはない。

〝前の世界〟ではそんなことは一度もなかった。

 ──やはり〝今〟と〝前〟の世界は大きく異なっているのだ……。

 出来事のスケールはまるで違うものの、東日本大震災のことを知ったときと似たような衝撃を功一郎は受ける。

 訃報にはもう一つ意外な情報があった。

 喪主が久美子で、しかも彼女がDOMYOの会長だという。

 あの久美子はいつから会社に関わるようになっていたのか?

 離婚後、功一郎は道明家への関心を意識的に消し去った。いまでは久美子との結婚生活自体が束の間の幻影であったように思える。だから、久美子が再婚したかも、無事に跡取りを産んだのかも知らない。ただ、功一郎が知っていた久美子はおよそ父親の事業に首を突っ込むようなタイプではなかった気がする。

 ──まあ、この世界では五日前に健一郎が亡くなっているのだ。久美子とDOMYOの関係そのものが〝前の世界〟と大きく食い違っている可能性はある。

 そんなふうに考えながら、功一郎は新聞を畳み、ローテーブルに置いてあったスマホを取り上げた。検索バーに「DOMYO」と打ち込み、DOMYOグループのホームページを呼び出した。「会社データ」のページを開き、「役員」のアイコンをタップする。

 代表取締役会長として確かに「道明久美子」の名前がある。

 その下の〈代表取締役社長〉の名前を見て、功一郎はまた意外な気がした。

「道明真一郎(しんいちろう)」

 と記されていたのだ。

 道明真一郎は、久美子の腹違いの弟の名前だった。健一郎が愛人に産ませた子で、久美子とは十五歳近くも歳が離れているはずだ。

 なぜ真一郎がDOMYOの社長を務めているのだろう?

 そもそも久美子の姓が「道明」のままであるのも不思議だった。

 久美子は再婚しなかったのだろうか?

 子供は産まなかったのか?


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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

◇長編小説◇里見 蘭「漂白」連載第175回
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