◇長編小説◇白石一文「道」連載第18回

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久美子から聞いた話が頭を離れなかった。だとしたら、美雨は誰の子なのか。

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 標連に会ったことは渚には言わなかった。

 あの日、「新富寿司」で久美子の告白を聞いて、渚のことをますます信じられなくなったというのもある。

 だが、それ以前に、標の誘いに乗った時点で、このことは当分秘密にしておこうと決めたのだった。

 標に対してもしっかりと口止めを行った。

「妻は、表向きは美雨の自主性を尊重しているような態度ですが、心中は恐らくその正反対なんです。きみたちが結婚を強行すれば激しい反発を見せるでしょう。美雨とも絶縁になりかねない。それは双方にとって最も不幸な展開です。なので当面は現在のような曖昧な状態を保っておいて欲しい。今日のことは妻には内緒にするので、そこは美雨にもきつく口止めしておいて下さい。いいですね」

 功一郎はいつぞや渚が口にした「そしたらもうゲームオーバーだよ」という言葉を想起しながら少し大袈裟に言った。

「おかあさまのことは、僕たちも充分に心得ているつもりです」

 標は頷いて、美雨にも必ず口止めしておくと約束してくれたのだった。

 そんなふうに渚に対して同じ秘密を共有することで、功一郎は、自分が標や美雨のサイドに身を寄せる形になる点についてさほど躊躇いはなかった。

 渚の長年に亘る裏切りが明らかになった以上、自分たち夫婦の行く末がまずもって不透明なのだ。そんな立場の親たちに娘の結婚をとやかく言う資格があるとも思えない。

 今回、二時間程度とはいえ標と直接やりとりをしてみて、功一郎は渋谷の「ベリッシマ」で得た印象が見誤りではなかったと改めて確認できたのだった。

 ──美雨のことはこの男に任せてもいいのではないか……。

 正直なところ、その思いを尚更に強くしたのである。

 標と会って三日後、七月四日木曜日。

 昼休みの時間を狙って、功一郎は碧に電話を掛けた。

 結果的に標との仲介の労を取ってくれた格好の碧に、標と会ったことを報告すべきだと思ったのだ。同時に、「脱力系」で「頼りない」との印象を語っていた彼女に自分の見立てを伝えることで、その評価を修正しておいた方がいいという気もしていた。

 年明けの一月九日に日本橋の「徳陽飯店(とくようはんてん)」で会って以来、碧とは一度も顔を合わせていない。顔を合わせていないどころか電話で話すことさえなかった。

 六ヵ月ぶりに碧の声を聞いた途端、功一郎は、「会いたい」と強く思った。

 最初からそのつもりで電話したのだと、そのときになって自覚した。

 簡単な挨拶のあと三日前に標と面談したことを伝え、

「久しぶりにご飯でもどうですか? 幾つかご報告したいこともあるので」

 と誘ってみた。

「もちろん喜んで」

 碧はすぐに応じてくる。その物言いで、美雨たちのことから関心が離れているわけではないというのが感じ取れる。

「僕は今週だったらいつでも時間を作れます」

「じゃあ、善は急げで今日にしましょうか?」

 話はとんとん拍子に進んだ。

「じゃあ、今回はこっちで場所は用意します。時間は六時半くらいでいいですか?」

「はい」

「この電話を切ったらすぐに店の名前と場所をメールしておきますね」

「了解です」

 あっさりと約束は整ったのだ。

 オリンポス本社がある日本橋の隣町・京橋に行きつけの小料理屋があるので、場所はそこにする。京橋宝通り沿いの古いビルの地下にある小さな店だが、そこであれば碧も迷わずに来ることができるだろう。

 六時半で個室の予約を入れて、すぐにスマホから食べログの店舗情報を添付したメールを碧に送っておいた。

 碧と久々に会えると思うと、ここ数ヵ月間の陰鬱な気分が少しばかり晴れてくるのを感じた。こんなことならもっと早くに連絡を入れればよかったと後悔する。

〝前の世界〟でのこともあって、〝今の世界〟では極力、彼女の人生に立ち入らないよう肝に銘じていた。連絡しなかったのもそのためだが、本当は彼女の想像もつかないようなレベルで自分たちはすでに親しいのだ。

 ──彼女に会えば、なんらかの解決策なり展望なりが見えてくるかもしれない。

 そう思うと気持ちがずいぶん楽になる。

 現在、功一郎が陥っている苦境を思えば、もっと早めに碧にSOSを発信してもよかったような気がした。

 京橋の店には碧が先着していた。といっても五分と待たせたわけではない。

 狭い畳の部屋で差し向かいになってみると、前回会ったときより碧が痩せているのに気づいた。頬がこけて首筋のあたりもげっそりしている。

 冷酒で乾杯し、前菜をつついている彼女に、

「少し痩せたみたいだけど、何かあったの?」

 と訊ねる。

 冷酒のグラスを持つ手が微かに震えているのに気づいて、さすがに訊かないではいられなくなった。〝今の世界〟に来る直前にも似たようなことがあった。碧の震える手を見て、功一郎はこれ以上、彼女を巻き添えにするわけにはいかないと覚悟を決めたのだった。

「実は四月に異動があって、それでちょっと大変なんです」


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白石一文(しらいし・かずふみ)

1958年福岡県生まれ。2000年『一瞬の光』でデビュー。2009年『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』で山本周五郎賞、2010年『ほかならぬ人へ』で直木賞を受賞。近著に『ファウンテンブルーの魔人たち』『我が産声を聞きに』。

◎編集者コラム◎ 『△が降る街』村崎羯諦
◎編集者コラム◎ 『人情江戸飛脚 月踊り』坂岡 真